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海で生まれ、川で育ち、また海に帰る上品な魚

スズキ

三谷 勇・樋田史郎 (2003年6月)

 魚の名前は人の名字のようなものです。名字は同じ祖先からわかれて出た家々の名前ですが、鈴木、佐藤、田中という名は非常に多くみかけます。鈴木という名は日本で一番多い名前ですが、同じ姓の人が多いということは、それだけ同じ先祖からでた血族の人々がいるということになり、歴史的にも古く、由緒ある名前になるそうです。私の愛読書の一つである内田康夫さんの推理小説のなかにも姓を題材にした作品があります。あの事件は菊池一族にまつわる因縁をモチーフにして展開されていましたが、これからお話しするのは菊池ではなく、鈴木(スズキ)という名前の魚です。

 スズキの名は人間社会のなかでは多いかもしれませんが、魚の世界ではそれほど多い人口(尾数)ではありません。同じ東京湾で漁獲されるコノシロやタチウオ、シャコよりも少ない漁獲量ですが、アナゴやヒラメと比べるとやや多く漁獲されています。

 この魚は、おもしろいことに、海にも川にもいるためか、環境の良否を判定するときによく使われる魚です。極端な人にとっては、スズキは公害魚のように思い込み、絶対に食べないと自慢していますが、この魚は古来から上品な魚として知られています。もともと上品な魚であったものが、いつの間にか公害の海のなかで生きているかのようにいわれたのではスズキにとっては身も蓋もありません。スズキの名誉を挽回するうえでも、この魚のいろいろなこと、たとえば、成長にしたがって変える生活場所や、そこで何を餌にしているか、古来から上品といわれるわけは何か、などについてお話ししたいと思います。

目次

1.呼び名

 スズキの名は、和銅5(712)年に献上された古事記(太安万侶撰)のなかに須受岐(スシュキ)としてみられますが、この名の由来については定説がありません。魚釣りの通人で博識の高い幸田露伴もこの語源についてはさじを投げていますが、そのなかで幾つかの説を紹介します。

 その一つが、江戸時代前期の元禄12(1699)年に発行された日本釈名(貝原益軒著)に、「その身白くてすすぎたるように清げなる魚なり」と記されています。このすすぎたるのすすぎがスズキに転化したという説です。スズキの透き通るような身は目も舌も楽しませるその涼しさが魚名の所以であろうというわけです。ちなみに、鈴の語源もまた音色の涼しさから名付けられているそうです。

 2つ目の説は、明治時代の国語辞典にみられます。明治時代の大国語辞典である大言海(明治24年大槻文彦著)には、スズキが荒磯などを勢いよく泳ぎ回る性質をとらえて、「進む」の活用形の「進き」が語源ではないかと説明しています。

 3つ目として、スズキの漢字で示される説です。スズキの漢字は魚偏に盧で、鱸と書きます。盧の意味は、黒い色のことをいいます。元禄8年(1695年)に発行された本朝食鑑(小野必大著)には、この魚は白い生地に黒い模様がついているので、こう名付けた、と記されています。正徳2(1712)年に発行された和漢三才図会(寺島良安編)でも同じことをいっています。この説でいえば、スズキの白い肌が黒く汚れているので、煤けたる魚の意味となります。

 これらの説に対して、昭和57年に発行された新釈魚名考(栄川省造著)では適訳ではないとしています。スズキのスズは清清(スズ)と魚を表わす接尾語の合成語で、この魚の形の美しさと美味な魚の意味で呼ぶのではないかと説明しています。

2.出世魚

 スズキは成長するたびに呼び名が変わる出世魚です。昭和56年(1981年)に発行された日本産魚名大辞典によると、関東では、最も小さいものをコッパ、体長15cm以下のものをハクラ、全長約24cm位の1年魚をセイゴ、全長30cm以上の2年魚をフッコ(関西ではハネ)、全長60cm以上の3年魚をスズキと呼び、これよりさらに大きくなったものを大太郎と呼んでいます。

 このような呼び方はすでに江戸時代でもみられ、和漢三才図会(正徳2年(1712年)寺島良安編)には、3、4寸位(約9〜12cm)ものを世比古(せひご)、6、7寸(約18〜21cm)から1尺(約30cm)のものを波禰(はね)といい、1尺以上2、3尺(約60〜90cm)を須受岐(すずき)という、と記されています。

 このなかで、セイゴの語源は、承平4年(934年)に発行された和名類聚抄(源順編)に示されています。この古書には、セイゴは婢妾魚といい、この時代には字の並びが逆転して妾婢魚(せひご)なり、楊氏漢語抄(楊梅大納言顕直撰)ではスズキの小さいものを世比(せひ)という、と記されています。この呼び名が江戸時代には世比が訛って世比古となったのではないか、と本朝食鑑(小野必大著)はいっています。これらの古書では文字の並び替えでセイゴの呼び方を示していますが、昭和の新釈魚名考(栄川省造著)では狭魚(せいお)の意が語源であるとしています。フッコについても同書では、江戸時代の呼び名で、セイゴよりもおおきいものをニサイ(2歳)またはフタツコ(2歳魚)の略称であるとしています。

 また、昭和61(1986)年に発行された「魚資料・魚の生態・風俗誌等(日本水産株式会社)」によれば、セイゴやフッコの名前は「齢」の呼び名が決め手となっているといいます。その年に生まれた魚は当歳児(とうさいご)といい、セイゴはこれが変形したもの、フッコは2歳魚(ふたつご)が変形したものとしています。ちなみに、土佐の釣師はセイゴのゴ(5)にかけて、セエロク、セエシチ、セエハチと、この大きさを序列化しています。また、伊勢湾知多半島では、フッコのことをマダカ、浜名湖ではマタカアといい、「まだスズキになれないのかあ」という意で呼んでいるようです。関西で関東のフッコをハネといいますが、スズキが水面を跳ねるためとする説とセイゴも終りの終り(はねる)の意で呼ぶとする説があります。

 このほかにユニークな地方名としては、山陰地方ではスズキの若魚をチュウハン(中半)またはアンサン(兄様)と呼び、老魚を北陸ではニュウドオ・ユウドオ、長崎ではヌリ(化け物・怪物のこと)と呼んでいます。チュウハンの呼び名は江戸後期の天保2(1831)年に発行された魚鑑(武井周作著)でも紹介されています。

3.スズキの一族

 スズキの名は人間社会のなかではよくみかける名前ですが、魚類学という魚の分類を手がける学問でも代表的な名前として使われています。

 魚は人間の祖先よりも4億年以上前に、他のすべての脊椎動物よりもおよそ1億年以上前にこの地球上に出現していますので、進化の途中で便利なように新たに獲得した形質(骨等)や逆に不用な形質を消失させるなど体の各部には特徴のある形質をつくり出しました。これから同じ形質をもつだけを一つにまとめることができます。これは、魚を分類する上で、その魚の性質をみる上でたいへん参考になります。

 著名な魚類学者の松原喜代松博士によると、現世の魚(分類学上は真骨類)は3つの大きなグループに分類されています。

 一つは約1億6千万年前のジュラ紀または約1億3千万年前の白亜紀に現われたイワシ類の仲間を中心とするグループで、ニシン目やコイ目、ウナギ目の魚が含まれています。もう一つのグループは、約6千万年前の第三紀に現われたスズキ魚群と呼ばれるグループで、ボラ目、キンメダイ目、タラ目、スズキ目、フグ目、アンコウ目などの魚が含まれ、真骨類のなかで最も大きな群となっています。他の一つはニシン魚群とスズキ魚群の中間的な形質をもつ魚群で、メダカ目、ダツ目、ヨウジウオ目などの魚が含まれています。この3つの魚群は進化の過程を示すもので、ニシン魚群の仲間が盛んに進化したときと、スズキ魚群の仲間が盛んに進化した時代があったとされています。

 ここに1グループを代表する名前にスズキの名が使われたことは、このグループのなかでスズキ目が最も大きく、スズキがスズキ型魚類の標準型ともいわれ、この目を代表するような形質を多くもっているためです。ニシンと並びスズキの名は魚の世界では広く使われることになります。

 スズキ魚群に属するスズキはスズキ目スズキ亜目スズキ科スズキ属に位置しています。スズキの名前がずらりとならんでいます。この分類の仕方をみてもスズキは名門中の名門であることがわかりますし、その仲間は大所帯であることが実感できます。

 スズキ亜目には、ハタハタ科、イシダイ科、アマダイ科、スズキ科、ニベ科、キス科、メジナ科、タイ科、イサキ科、キンメモドキ科など68科に属する魚達がいます。

 グループとしては最小単位のスズキ属には、大所帯である割には近似種が少なく、スズキとヒラスズキの2種がいるだけです。現在ではこの2種ですが、昭和32(1957)年以前は、スズキ科にはスズキの1種だけしかいないと考えられていました。ところが、沿岸漁業者の間では2種類のスズキがいることが知られていて、魚市場の競りでは値の高いスズキと安いスズキとに分けて扱われていました。魚類学者の片山正夫博士はこれらのスズキを詳しく調査したところ、漁業者のいうように2種類のスズキがいることがわかり、昭和32年に新種のヒラスズキとして命名し発表しました。これがヒラスズキの誕生劇です。

 スズキとヒラスズキは、 図1図1(スズキとヒラスズキ) に示したように、一見しても区別がつかないほど似ています。長い間、魚類の研究してきた学者ですら気がつかなかったのですから、非常に見分けにくい魚達であったに違いありません。この2種はどこが違うかというと、ヒラスズキはスズキよりもさらに左右に平たく、体高がやや高めで、下顎の下面に1列の鱗があります。背鰭の軟条数がスズキでは12〜14本、ヒラスズキでは15〜16本です。これらは一見して区別することのできませんので、同じスズキと思い違いをしたようです。

 最近の分類では、スズキ属にもう一種増えてタイリクスズキというスズキが加わりました。このスズキは黄海、渤海沿岸、東シナ海や南シナ海北部の中国大陸の沿岸部に分布していましたが、最近では西日本を中心とする沿岸域で養殖され、沿岸域や淡水域に侵入しているそうです。

 最近のDNA(遺伝子)分析によると、中国や韓国西岸に生息するタイリクスズキと日本の周辺に生息するスズキ、それにこれらの中間に位置するスズキがいるそうです。この中間にいるスズキが有明海のスズキです。これは、大陸と日本が陸続きであったときには中間のスズキはまだ地球上に生まれていませんでしたが、氷河期が過ぎ間氷期になると、海面が上昇し現在の東シナ海が形成され、さらに有明海ができるようになると、タイリクスズキと日本産スズキの分布域が分離されて、この中間種だけが有明海だけに生き残ったのではないかと推測されています。

 現在では、大陸と日本は東シナ海で分離されていますが、スズキの世界では、タイリクスズキが日本に進出してきていますので、かっての1万年前の世界にもどってきているようです。

 スズキと言えば、島根県松江の奉書焼が有名です。ところが、松江の鱸となると、宍道湖の奉書焼の鱸もさる事ながら、中国では上海・松江の鱸が知られています。「松江鱸魚」は黄河の鯉と並んで中国四大名魚の一つに数えられるそうです。中国でも鱸はスズキのことを指すようですが、この「松江鱸魚」(図9図9 (松江鱸魚=ヤマノカミ))は学名でTrachidermus fasciatus、標準和名でヤマノカミと言うカジカの仲間で、スズキとは無関係です。

4.上品な魚の食品史

 スズキは上品な魚と題しましたが、歴史のなかではどのように扱われてきたのでしょうか。いろいろなエピソードを含めてみてみましょう。

(1)太古の時代

 まだ日本という国ができていなかった大昔は、人々の食生活は豊かで、グルメであったといいます。その食生活を知る手がかりは、当時の人々が食べ捨てた貝や骨などが地中に埋ってできた貝塚や住居跡などの遺跡から出土したもので、魚の骨などはその形状や形から魚の種類を知ることができます。

 相模湾沿岸には多くの貝塚や遺跡がありますが、その多くの貝塚からスズキの骨が出土しています。東京湾側では、横浜市金沢区にある称名寺貝塚、同野島貝塚、横須賀市夏島貝塚、同鴨居中台貝塚、同吉井貝塚、同市浦賀町にある高坂貝塚などで、湾口部の三浦市松輪にある間口東洞穴遺跡からはスズキの骨は見つかっていないようです。

 相模湾の沿岸では、藤沢市にある遠藤貝塚、同立石貝塚、茅ヶ崎市にある堤貝塚、西方貝塚、寒川町にある岡田貝塚からスズキの骨が出土していますが、相模湾の東に位置する三浦市の諸磯貝塚からは、多くの魚が発見されているにもかかわらずスズキの骨が出土していません。

 現在では、スズキは東京湾で多く漁獲されていますが、相模湾の江の島周辺でもわずかに漁獲されていますので、太古の時代からスズキの分布は変わらないようです。また、相模湾では現在の海岸線よりも内陸部に貝塚がありますが、これは、約3〜5千年前、 図2図2(縄文海進時の海岸線) に示したように、海岸線が内陸に入り込んでいたためです。

(2)万葉の時代

 この時代の高貴な人々がスズキを好んで食べていたことを示す事実があります。それは、和銅5(712)年に献上された古事記(太安万侶撰)のなかで「大国主神の国譲り」の編で述べられています。

 大国主神が出雲国の多芸志(たぎし)の小浜に神聖な神殿を造り、水戸神の孫の櫛八玉神(くしやたまのかみ)が料理人になって神饌を献上することになりました。櫛八玉神が鵜になって海底の泥や海藻を集め、これでたくさんの平たい土器や臼、杵を造り、お祝いの詔をささげましたが、その中に、千尋の長い延縄を海中に延ばして海人の釣る、口が大きく尾鰭の見事な鱸(スズキ)をざわざわと賑やかに引き寄せ上げて、載せる台もたわむほどにたくさん盛り上げて、魚の料理を献上しました、という一節があります。この記述から出雲国ではスズキを延縄でとり食用にし、神に捧げる神饌としての魚でもあったということがわかります。

 天平5(733)年に成立した出雲風土記には、島根郡栗江埼(現島根県八束郡美保関町森山南岸の崎)の南の入海には、イルカ、ワニ(サメ)、ボラ、スズキ、コノシロ、クロダイ、シラウオ、ナマコ、エビが非常に多く、その名を全部はあげきれない、と記されています。この頃には出雲国のスズキは有名らしく、これ以後に法令化される延喜式(藤原時平撰)の頃では、地方の名産品としてスズキが貢納されることになります。

 和銅3(710)年3月に開都した平城京跡からは多くの木簡が出土していますが、伊和志(いわし)や麻須(ます)など多くの魚と同じように須々岐(すずき)の名を記した木簡が出土しています。その一例として、参河国(現愛知県)播豆郡から正月料理として須須岐の楚割を献上したという木簡があります。楚割は魚を細長く割いて塩干しにしたものです。

 延長5(927)年に撰進された延喜式(藤原時平撰)では、山城国から平栗子・氷魚とともに鱸(スズキ)が献上されています。漁業史研究の基礎を築いた渋沢敬三氏の研究では、スズキは海のない山城国から献上されていることに注目して、フナやコイ、サケなどとともに淡水魚の一種のように考察しています。出雲国からは烏賊(いか)と共に鱸が朝廷に貢納されていたことが平城京跡などから出土した木簡に記されていますが、これは、地方の名産品などを朝廷に送った献上品で、税として送られたものではありませんでした。

 当然のことですが、当時もスズキは出雲国や参河国ばかりでなく他の海にも分布していました。奈良時代末期かまたは平安時代初期に万世の後までも伝わる歌集として撰集された万葉集には、柿本人麻呂が筑紫に赴任(または帰任か)する船上で詠んだ歌があります。

 荒たへの 藤江の浦にすずき釣る 白水郎(あま)とか見らむ旅ゆく吾を

 柿本人麻呂の乗った船が藤江の浦(現兵庫県明石市)の沖を過ぎるとき、スズキを釣る海人の釣り舟と出会ったときの情景を歌っています。この歌から瀬戸内海でもスズキを漁獲していたことが知れ、日本海側の出雲国、太平洋側の参河国、瀬戸内海の藤江の浦、そして、内陸の河川にある山城国と広い水域でスズキがとられていたようです。

(3)平安時代

 この時代の人々が賞味した食料は、承平4年(934年)に発行された和名類聚抄(源順編)から知ることができます。この古書には約200余種の食料があげられていますが、この中に、スズキは、顔が鯉に似てしかも鰓は大きく開く、と解説しています。

 このスズキは貴族の年中行事や儀式に催される饗膳にも使用され、この魚が高貴な人々にも賞味された上品な魚であることを裏付けています。この一例として、この頃の饗膳の献立をまとめた厨事類記には、なますにスズキを用い、「鱸ハ、皮スカズ、ツクリカサネテモルベシ」と具体的な調理法と盛り方を述べています。スズキがないときにはタイを代用にするとしています。このような調理法や盛り方を示した例は過去になく、本書が初めてだそうです。

 また、鎌倉時代に作られた平家物語には、平安時代に大権力を握り栄華を極めた平清盛とスズキの話があります。それは、平清盛がいまだ安芸(現広島県)守のとき、伊勢(現三重県)の安濃の津から船に乗り、熊野の祠に詣でる途中で、大きなスズキが船に躍り込んできました。清盛は、「昔、周の武王の船に白魚が躍り込み、これがもとで商(殷の紂王)に勝って周の国を守った」という故事を思いだし、喜んで自ら調理して食べ、そのあとあまねく家族のものを饗応しました。この物語のなかでも、当時高貴な人々がスズキを好んで賞味していたことがわかります。

(4)鎌倉時代

 治承4(1180)年源頼朝の挙兵から、文永3(1266)年惟康親王が将軍になるまでの鎌倉幕府のことを書き記した吾妻鏡(鎌倉幕府編)に、「建久2(1191)年8月1日大庭平太景能が御亭を新造したとき、盃酒を武衛に献じたが、その儀礼は美を極めるものではなかったが、ただ、スズキを五種の魚として薦めた」という話がのっています。この話から、この時代にもスズキは高貴な人々に賞味されていたことがわかります。一般の日常食については、家庭の教訓を手紙文の形式で述べた庭訓往来(僧玄恵作)にもスズキを食べていたことが記されていますので、貴族も庶民も広くスズキを食べていたようです。

(5)室町時代

 室町幕府の将軍家は軍事経済の面では各地の守護大名よりも弱かったので、守護大名を懐柔するために、その邸宅を訪問して饗膳や進物を受けることが多くありました。永禄4(1561)年3月30日三好筑前守義長朝臣亭へ足利義輝将軍が御成りになったときの献立に、初献のとり・ぞうに・亀のかふから始まり、17献としてカラスミ・せいご・はまぐりがあります。

 また、この時代は武家が中央で政権をとるようになったために、武家と禁中とが接触するうちに武家のための食事作法が作られるようになってきました。それと共に、鎌倉時代に包丁師と呼ばれる魚鳥の調理専門の特別な職人が包丁の秘伝、いわゆる料理のコツを秘事口伝し、この時代になって料理の流派が生まれるようになりました。

 その一つの公家の系統である四条流包丁書には、スズキの刺身は前に尾なども三切れにても五切れにても上に置きて、これをたで酢で食べること、などが記され、武家の調理専家である大草家料理書には、川のスズキの刺身は上也、酢塩はしょうが酢中也、辛し酢は下也、海のスズキは汁にするは上也、刺身は中也、などの記述があります。この時代も公私の饗宴にはスズキが重要な食材として扱われています。

 また、当代のスズキに関するエピソードとして、北条五代記には次のような話があります。

 福島伊賀守は相模国(現神奈川県)の河に人を喰うくせ者がいるということを聞き、鵜を河に離したところ、中間が一人水底に引き込まれたのを見て、「すはくせものよ、のがすまじ」と脇ざしを抜いて水に飛び込み見れば、眼の光るものがありて中間を喰っている。伊賀守は大力で彼を引き離し、5振り刺して浮かび上がったところ、そのあとから中間が死んで浮かび、次いで長さ1間ほどの鱸(スズキ)が死んで浮かんできました。福島伊賀守は希代の気なげなもの、鬼の生まれかわりと人々は誉めたたえたそうです。

 また、応仁記には次のような話が載っています。

 応仁元(1467)年8月23日戌刻(午後8時頃)将軍御所を出た室町殿の足利義視(第8代将軍足利義政の弟)は、翌24日明け方、江州(近江:現滋賀県)山田の浦に来たとき、舟に体長1尺(約30cm)あまりの鮓(ニゴロブナ)が飛び込んできたので、粗忽な者がすぐに捕まえて海に投げ入れたところ、また、スズキが一尾入ってきました。わが国でも平清盛公の故事があるので、これは吉例であると、スズキを料理して酒盛りを行った、という一節です。

(6)安土桃山時代

 スズキは、この時代にも重要な行事の饗膳には一品を飾る食材として利用されていました。文禄3(1560)年4月8日、豊臣秀吉が前田利家邸へ赴いた際の響宴の献立に、十三献に雲雀(ひばり)鱸(すずき)のしがあります。また、天正16(1588)年4月15日、天下人となった豊臣秀吉が造営した聚楽第に後陽成天皇の後行を仰いだ際の2日目の献立に、スズキはかまぼことともに食膳に並んでいます。

 また、当時の町人、特に貿易商人は大名に劣らぬ食品を賞味していました。たとえば、博多の貿易商人で茶道に親しんでいた神屋宋湛は、天正20(1592)年10月に朝鮮の役に名護屋へ来た秀吉をもてなしていますが、その懐石料理の二の膳にスズキの焼物を出しています。

(7)江戸時代

 世の中が平和になると、室町時代の料理法を受けてさらに大きく発展しました。寛永20(1643)年に発刊された一般向け料理本の料理物語(作者不詳)には各種の料理法が記されています。第1海の魚の部では、スズキはさしみ・汁・やきても・なますに使い、第9汁の部ではスズキの汁は昆布だしにてすましよし、と記されています。スズキは饗膳には欠かせない食材となってきていますが、スズキは海で生まれ育ち、河川をさかのぼる魚です。この時代の河川は、隅田川のシラウオ漁をみるまでもなく、きれいな川でしたから、庶民はいつでもスズキを釣り食べることができたようです。

 元禄8年(1695年)に発行された本朝食鑑(小野必大著)には、「東南の海で、四季を問わずにとれる。現今、京都の淀川、宇治川の産が上品で、播州・紀州・泉州・勢州・尾州・参州・遠州・駿州・豆州・相州・江都・房総などで盛んにとれる。川のものは美味で、脂が多い。海のものは味が浅く、脂が少ない。ただ、雲州松江のものだけは多くとれ、味もよいといわれる。当代では、この潔白で淡い味を愛して多く噛み食べる」と記され、江戸庶民も食べていることを述べています。

 料理物語から約90年後の享保15(1730)年に出版された料理網目調味抄(嘯々軒宋堅著)には、タイ、スズキ、マナガツオ、サバ、アジ、カツオ、サワラ、ブリ、サケなどは身をとりて平につくり、こけら酢(ずし)に、とあります。こけら酢というのは箱ずしの一種で、材料の魚の身を薄く切って乗せるとこけら(木屑)のように見えることから名付けられています。この頃には一般庶民もスズキの寿司を食べていたのです。

 江戸後期の天保2年(1831年)に発行された魚鑑(武井周作著)には、下総(現千葉県)の銚子の産をよしとするが、角田川(すみだがわ)の下流にいるスズキは夏に玉なますにするとこれに過ぎるものはなし、と評しています。相変わらずスズキは一般庶民にも美味な魚として扱われています。同じく江戸後期の古書で、弘化4(1847)年9月に刊行された重訂本草綱目啓蒙(小野蘭山口授)には、スズキは、城州の淀川・宇治川、武州の小松川、相州の相模川、播州・紀州・泉州・勢州・尾州・参州・遠州・駿州・房州・総州などの東南の海で多く産する、北海の海でもとれるが東南のものに及ばず、雲州松江のスズキは名産で味も優れている、雲州産の大きいものでは5尺(約1.5m)、他州産のものは3、4尺(約0.9〜1.2m)で小さい、などが記述されています。この古書から、スズキを産するところは江戸前期とほとんど変わっていないことがわかります。

(8)明治・大正時代

 明治時代初期の漁業界は非常に混乱していました。明治8(1875)年、明治政府は職業自由の原則により海面官有宣言を発しました。これは、旧藩が許可していた漁場の占有制度が守らなくてもよく、誰でも自由に漁場を使うことができるというものでした。これは漁業界にとってたいへんな混乱をもたらしました。他藩の漁業者が旧漁場に乱入してきたり、新たに漁業を始めた者と旧漁業者とのあいだに漁業紛争が各地に起こり、政府はこの制度を1年を経ずして撤回することになりました。それでもこの混乱が続いたため、明治14(1881)年、内務省達を発令しその解決にあたりましたが、この結果、東京湾ではこの年に江戸時代から続いた文化年間の協約を復活させることになり、各地域では漁業組合がつくられるようになりました。

 この明治時代初期における漁業はあまり資料がありませんが、明治7(1874)年に神奈川県で漁獲された上位魚種の生産金額は、コチ31千円、アジ30千円、スズキ21千円、タイ16千円、サメ16千円、イワシ10千円、カレイ6千円、サバ5千円、アンコウ3千円で、スズキは第3位の生産金額をあげ非常に多く水揚げされていたことがわかります。 

 明治20(1887)年頃から全国的に人口動態や種々の産業に関する統計がはじまり、神奈川県の漁業統計もこの頃から作られるようになりました。明治20年の漁獲統計では、生産金額が最も多い魚種はタイ類で、次いでマグロ、カツオ、アジ、イワシ、ブリ類が続いています。明治7年に上位魚種であったコチやアンコウの生産金額は明治20年になってもほとんど変わっていませんが、他の魚種の生産量が増えたためにこれらの魚の順位が下がってきています。スズキの生産金額も11千円と明治7年の半分程度に減少しています。

 この後もスズキの生産量は減少し、明治30年には約3千円になり、明治34年頃一時的に9千円台となるものの、その後も3千円以下の低い生産金額で低迷していました。このため、スズキの単価は高くなり、明治30年にはkg当たり0.17円であったものが、大正2年には0.30円と約2倍にまで上昇してきました。

 神奈川県水産試験場(現神奈川県水産総合研究所)は明治45年に設立されましたが、大正2年頃には漁獲の減少してきたスズキの養殖に取り組んでいます。大正2年10月に全長6寸8分(約20cm)のセイゴ100尾を2年間蓄養し、大正4年11月に販売しています。この時の平均体長が8.12寸(約24.6cm)、70.3匁(約264g)で、天然産のものに比べて肉付きが良好で好評を博したそうです。ちなみに、販売価格は1尾当たり7銭7厘で、kgに換算すると0.29円でした。また、当時でも養殖中の魚の盗難があったらしく、大正4年5月に18尾のスズキが盗難にあっています。

 この養殖では、水深90cm以下の試験池を用いていますが、冬季には水温が平均で3℃前後まで下がり、セイゴが多数死亡したことが報告されています。これは、川をさかのぼったセイゴが冬季には海に戻る習性を検証しているかのようにみえます。

(9)昭和・平成時代

 スズキの漁獲量や生産金額は、他の魚に比べてあまりにも少ないために、大正11年から昭和20年代頃までまとめられていません。この間のスズキはどのようになっていたかはわかりませんが、この漁法は一本釣であったために、戦時中は大量にとることのできない漁業はあまり操業することができなかったのではないでしょうか。

 大戦直後、昭和21年のスズキ漁獲量は約30トンで、大正初期の漁獲量とほとんど変わりがありませんでしたが、戦後の食料難を解消するために、魚介類の増産計画が国策として進められてくると、スズキも他の魚と同じように年々増産されるようになりました。昭和29年には130トン、昭和35年には190トン、昭和46年には351トン、昭和50年には昭和の時代としては最高の660トンとなりましたが、その後、東京湾で公害が発生し大打撃を受けました。それは、スズキが河川ばかりでなく河口域に広く分布しているので、工場排水や家庭排水の影響を受けやすいためです。そこから排水された有害物をスズキが食べて、それを体内に蓄積しているというのです。それでも、昭和50年代前半は500トン代の高い生産を上げていましたが、徐々に公害の風評被害を受けてその生産量が減少し、昭和61年の漁獲量は、 図3図3(神奈川県におけるスズキの年漁獲量) に示したように、昭和40年代に匹敵するまで低下してしまいました。おそらく、スズキの長い食品史のなかで、これほど危険な危ない魚として扱われたのは初めてではないでしょうか。

 平成の時代に入ると、公害の発生源となっていた工場排水などの排出規制が法的に整備され、東京湾の水質が徐々に浄化されるようになってきました。そのためか、平成3年頃から年々漁獲が増え、平成10年には明治以来の最高の漁獲量(734トン)を上げています。

 このような神奈川県のスズキの漁獲量は、全国の総漁獲量とほぼ同じ傾向を示しています。全国でスズキの漁獲量の多い都府県は、平成12年では、第1位が千葉県で1919トンと他県を引き離して最も多く、第2位が兵庫県で858トン、第3位が632トンの愛媛県、第4位が588トンの愛知県、第5位が567トンの神奈川県、これ以降は大阪府の496トン、三重県、福岡県、香川県、山口県の311トンと続きます。いずれも東京湾や瀬戸内海、伊勢・三河湾に面した県の漁獲が多くなっています。ちなみに、奈良・平安時代、江戸時代のスズキの産地と現在の漁獲の多い県を 図4図4(スズキの名産地) に示しておきます。

5.スズキの一生

(1)海で生まれる

 スズキの産卵期は、親の卵巣や精巣が大きくなる時期から調べたものと、実際に卵や稚魚を採集して求めたものとがあります。

 仙台湾のスズキは10月下旬から生殖腺が発達し、11月下旬には雌雄とも最大となります。その後急速に生殖腺が小さくなりますので、この湾のものは12月中旬から翌年1月上旬と報告されています。若狭湾のものは11月末から急に大きくなり、1月末には小さくなりますので、12月下旬から翌年1月中旬とされています。同じような方法で、犬吠埼近海では10〜11月、伊勢・三河湾では1〜3月、渥美外海では11〜12月、瀬戸内海では10月から翌年1月、土佐湾では11月から翌年4月、九州近海では11〜翌年3月とされています。

 関東近海では、東京湾が最も大きい産卵場ですが、この海域の産卵期は、スズキの卵や稚仔魚を採集した元東海区水産研究所渡部泰輔博士によると、10月下旬から翌年2月下旬で、その盛期は11月下旬から翌年1月下旬と報告されています。

 いずれの海域でも産卵期は晩秋から冬季にかけてですが、全体としては南部海域では北部海域よりも長い傾向がみられます。

 産卵場となる海域の特徴は、外海に面した沿岸の岩礁地帯で、凹凸のある水深50〜80m位の水域が選ばれています。東京湾では、 図5図5(スズキの産卵場) に示したように、東京湾の観音崎周辺から東京湾の境目付近(城が島と州の崎を結ぶ境界線)にまでスズキの卵が分布しています。

 スズキの産卵時刻については、水槽実験の結果から午後3時頃から始まり、特に夕刻に盛期になりますが、産卵には低気圧が通過して風が強く吹く日に行われます。冬季に寒波が襲来すると、スズキの移動が激しくなり、これが産卵を誘発するといわれています。この水槽実験では、12月4日から1月3日までの間に雌雄30尾のスズキが8回にわたって産卵しています

 スズキの卵は、直径1.22〜1.45mmの球形で、生み出されると個々に分離して浮遊します。卵は、アジやサバの卵よりはやや大きいものの、特にこれといった特徴はありませんので、先の渡部博士は採集した卵を孵化させ仔魚まで飼育してスズキの卵であることを確認しています。

 この卵は、水温14℃前後で産卵後4日半くらいたってから孵化します。孵化直後の大きさは全長4.5mm前後で、孵化後5〜6日で約5.2mmになり( 図6図6(スズキの稚仔魚) )、餌をとり始めます。これらの仔魚は産卵場近くの海域を2ヶ月間くらい浮遊していますが、2〜3月に全長14mm位になると、岸寄りの藻場や河川に入るようになります。4月には20mmの稚魚となってアマモ場に移り、かいあし類や枝角類などの動物プランクトンやユスリカ幼虫、多毛類、エビ類の幼生などをいろいろな餌をとり、6cmくらいになるまでここで生活します。

 このように海で生活する稚魚ばかりではなく、海から川をのぼって川や湖で生活する稚魚もいます。なぜ、川をのぼるのでしょうか。有明海に生息するスズキを調べた研究報告によると、冬季に稚魚の餌となる動物プランクトンが汽水域よりも河川域のほうが多いために餌を求めて川をのぼるのだそうです。この動物プランクトンは複数の種類ではなく、塩分の低い川にいる単一の種類です。

(2)川に入る

 スズキの稚魚は川に入る前に体の一部を少し変えなければなりません。海にいるときは、血液の浸透圧は海水よりも低いので、水が鰓や口から体外にとられるために常に大量の水を飲んでいなければなりません。これが川に入ると逆転して、体内に水が侵入することになりますので、たえず余分な水を尿にして排出していなければなりません。

 海で生まれたスズキの稚魚は、海水を大量に飲むために、塩類の取り過ぎになりますので、余分な塩類を体外に排出する必要があります。この仕事をしているのが、鰓にある塩類細胞と呼ばれる細胞です。この細胞によって取り過ぎの塩分を調整しています。川に入ると、この塩類細胞は消えてなくなり、今度は塩類を取り込むための塩類細胞が現われてきます。この切り替え作業の準備ができるまで、海にいる稚魚は川に入ることができません。河口40〜50日位過ごしてから準備万端川に入っていきます。

 川に入るスズキは15mm前後から河口域に集まり始め、2cmくらいになると、川を上り始めます。ちょうど海では仔魚が浮遊生活を止め、岸寄りの藻場に移り住むようになる頃です。川を上ったスズキのなかには、利根川のスズキのように、河口から200kmの上流で確認されたものもいます。延長5(927)年に撰進された延喜式(藤原時平撰)のなかに山城国からスズキが貢納されていますが、このスズキも大阪湾に注ぐ淀川や宇治川を上ってきたもののようです。

 川に入った仔魚は4〜5月の間5〜6cmの稚魚となり、川を下り始めます。スズキは海の魚で、川のように浅いところでは水温が下がり過ぎて越冬できませんから、かならず川を下ることになります。7〜8月には15cm前後となると、川を離れて再び海に入り、沿岸一帯に移動して生活します。

 元茨城県水産試験場高瀬英臣研究員は、茨城県涸沼( 図7図7(茨城県涸沼の位置) )に入るスズキの稚魚について研究し、非常に多くの稚魚が川を上っていることを報告しました。

 4月上旬になると、涸沼にある張網でスズキが漁獲されようになります。この時の大きさは1〜4cmに成長したもので、6〜7月には体長6〜14cmに成長します。この時期には1日当たり100〜1000尾も漁獲され、最盛期を迎えます。涸沼には生まれた時期の違う集団が幾つか入り込みますが、これらは涸沼で混合することはありません。

 涸沼で標識放流した結果によると、海から川を上ってくる稚魚は、6月の時点で約1500万尾と推定され、これらは徐々に下流域に移動します。このため、9月下旬から10月中旬には、約80万尾程度にまで減少します。12月中旬から翌年4月上旬までは涸沼でほとんど再捕されなくなりますので、大部分のものはいったん海に出るものと推定されています。

 そして、翌年4月中旬頃になると、再び標識魚が再捕されるようになりましたので、1年魚となったスズキのうちの一部が稚魚時代に生活した川に再び戻って、そこで生活することがわかりました。これらのスズキは体長30cm前後となり、10月中旬頃から川を下り始めます。

(3)未成魚・成魚の深浅移動

 稚魚時代を海で過ごした若魚は10〜11月に体長13cm前後となり、次第に藻場を離れ、やや深い藻場周辺の深みに移動します。島根県松江では、10月以降の雷のことをスズキ落としと呼びますが、これは宍道湖のスズキが雷鳴と共に海の深みへと落ちてしまうからといわれています。川を下ってきた若魚も同じく深みに移動し、水温が本格的に低下する12月には未成魚となって、内湾の深みから外湾に出てそこで越冬します。仙台湾では、未成魚は1〜3月に水深90〜100mのところで越冬し、春の4〜6月に急速に接岸して、7〜9月に水深20m以浅の海域や汽水域や河口域で生活します。

 京都府久美浜湾では、2歳魚は4月に接岸し、6〜8月には浅い沿岸域や河口域で生活しています。3歳魚になると、2歳魚よりも遅く接岸して湾内に広く分布していますが、9月頃から徐々に湾外に出て産卵し、3月頃まで越冬します

(4)成長

 12月〜翌年1月に生まれた仔魚は2ヶ月間浮遊生活を送り、2〜3月に15cm位になると、あるものは沿岸の藻場へ、あるものは川を上っていきます。

 川に入ったスズキの成長は、4月には約2cmであった稚魚は、5月には約4cm、6月には約7〜8cm、7月には約10cm前後、8月には約11cm前後、9月には約14〜16cmとなり、10月には約17cmとなって、川を下り始めます。

 海で育った稚魚は6月には3.5〜6cmに、7月には6〜8cmの若魚に、8月には11cm、10月には16cm前後、年末には20cm前後のにまで成長します。スズキの年齢査定は鱗上にできる年輪 (図8図8(スズキの年輪)) で行いますが、この年輪は12月〜翌年1月に形成されることが知られています。これをもとにすると、1歳で20cm前後、2歳で30cm前後、3歳で40cm前後となります。これらの成長は地域によって異なり、一般に仙台湾や三陸のものでは成長が悪く、房総以南から九州のもののほうが成長がよいようです。4歳魚以降の成長は、仙台湾では、4歳魚で約43cm、5歳魚で約49cm、6歳魚で約53cm、7歳魚で約56cmですが、房総沖では、4歳魚で約46cm、5歳魚で約58cm、6歳魚で約61cm、7歳魚で約65cmと計算されています。

 また、月別にみた成長は、1〜6月よりも7〜11月までのほうが成長がよいといわれています。

(5)餌

 1歳魚の未成魚は、仙台湾では、1〜2月がキシエビ、3〜6月がイカナゴ、10〜12月はカタクチイワシとキシエビを食べます。成魚もマイワシ、カタクチイワシ、マサバ、イカナゴ、ヒラメ、エビ類、ヤドカリ類、イカ類などで餌の種類は限られていますが、もっとも重要な餌はイカナゴだそうです。

 ところが、浜名湖産のスズキは仙台湾に比べて多くの種類の餌を広く食べています。このなかにはクルマエビやサヨリなども含まれています。東京湾では、戦前、シバエビがスズキの未成魚の餌として重要であったといわれていましたが、最近の調べた結果によると、夏に湾内の浅いところで生活するスズキはゴカイ類を主要な餌にしていることがわかりました。

 また、スズキは朝まずめと夕まずめから夜半にかけて活動し、小さな甲殻類や小魚を飲み込む習性をもっています。秋になると、浜名湖に近い海岸では夜釣り漁が盛んに行われ、瀬戸内海でも11〜12月にかけて灯火を用いたスズキの夜ふかし釣りが操業されますが、これもスズキの習性を利用したものといえます。ちなみに、スズキは春から夏に魚礁につく習性があります。魚礁の面積が大きくて、表面に凸部が多い魚礁ほど多く集まりますが、どんなところにもある魚礁につくわけではありません。潮の流れる通り道にあって、海底が軟らかい泥状のところで、岸から放れたところにある魚礁によく集まります。砂や小石の多い海底にある魚礁にはあまり集まってこないようです。

6.スズキ釣り

 スズキは、現在では旋網や底曳網、刺網、定置網などでたくさん漁獲されていますが、明治時代には一本釣や曳縄で漁獲されていました。明治20年頃の漁期・漁法控によると、スズキ釣の道具は、釣1匁5分(約6g)、テグスの長さ18尋(27m)で、錘を用いず、とあります。この道具はクロダイ釣と同じ仕掛けであったようです。クロダイ釣りは3分(約1g)の鉛を錘として付けていますが、スズキ釣りには錘を使っていません。現在でもスズキ釣りは、活シコ(カタクチイワシ)を餌として使用し、錘を使っていませんので、現在のものとあまり変わらない漁法であったようです。

 スズキ一本釣りの漁法は大変ユニークなもので、私は昭和50年頃このスズキ釣りを経験しました。スズキ釣り専業の漁船に幾度となく同乗してスズキを釣りましたが、この漁場が定置網の垣網を利用したところでした。垣網とは、定置網の箱網から岸に向かって長く張り立てられた網のことですが、スズキはこの網に沿って泳ぐ性質を利用したものでした。

 スズキ釣漁船は定置網の垣網の近くに来ると、釣場となるところを選び、垣網から10m近く離して錨を落とします。それから、餌となる活シコ(カタクチイワシ)を漁船の活漁槽の中から取り出し、その鼻先に釣針を通して、できるだけ垣網の近くに落ちるようにこれを投げ入れます。垣網から離れた地点に落下したときは、たぐり寄せてまた投げ入れます。餌のシコは落下地点の周りを泳いでいますが、垣網に沿って泳ぐスズキはこの餌に食いつきます。小さな当たり(魚信)があって次に大きな当たりがきます。この当たりがあると直ちにスズキを引き寄せます。ちょっとまごついていると、スズキは垣網の大きな網目を通り抜けて反対側に通り抜けてしまいます。ゆっくりたぐり寄せていると、スズキは船に向かって突き上げてきたり、逃げようとして走り出します。こうなると大変です。逃げようとするスズキとそれを引き寄せようとする釣手との戦いです。スズキが突き上げてきたときには、釣針からはずれたのではないかと思うほど縄がたるみます。このときに、すばやく縄をたぐり寄せます。これがうまくいくと簡単に獲物を取り込むことができるのですが、まごまごしていると、スズキが海面から飛びはねり、鰓で釣糸を切ったり、針をうまくはずして逃げられることがあります。これが、スズキの鰓洗いです。やっとの思いでスズキを船内に取り入れると、心の底から感動と充実感が沸き上がってきたことを、今でも思い出します。

 このスズキ釣りも最近ではあまり見かけなくなりました。昔は定置網の周りに数隻のスズキ釣り漁船が操業をしていました。もちろん、この漁船と定置網とは共存共栄の関係で、釣りに使う餌はこの定置網から買い、ときには定置網の網起こし作業を手伝ったりします。

 では、最近のスズキはどのような漁法で多くとられているのでしょうか。

 平成12年の漁法別の漁獲量をみると、スズキを最も多くとっている漁法は旋網と小型底曳網でした。旋網の中でも東京湾にある横須賀市鴨居地区の旋網が112トン、次いで横浜市の小型底曳網で110トンでした。この二つの漁法で全体の約40%をとっています。これがいつ頃からこのようになったかを少し調べてみましょう。

 明治時代から昭和30年頃まではスズキは一本釣りや曳縄で漁獲されていました。昭和31年の統計をみると、スズキは釣りで全体の約66%を漁獲していました(17.5トン)。次いで、小型定置網の1.7トン(約6%)で、旋網はわずか0.8トン、小型底曳網はほとんど漁獲していませんでした。

 それが、昭和30年代後半から旋網の漁獲が少しずつ増えてきて、昭和42年には、旋網が全体(214トン)の約41%を占め、釣りの約26%を追い抜きました。このときはまだ小型底曳網ではわずか4トンしか漁獲していませんでした。旋網はどんどん釣りとの差をつけ、小型底曳網の漁獲も年々増え、昭和51年には小型底曳網も釣りの漁獲を抜く事態となりました。この間の釣りの漁獲量は年間50トン前後で安定していましたが、昭和50年には26トンと半減し、平成12年には釣りの漁獲はわずか7トンと非常に少なくなりました。

 この旋網や小型底曳網は主に11月頃から翌年6月頃に多く漁獲していますが、釣りが主体であった昭和30年頃では、4月から8月までが盛漁期で、9月から翌年3月までの秋冬季はあまりスズキをとっていませんでした。特に冬季のスズキは産卵のために浅いところに集まってきますので、釣りでもとろうと思えばとれる状態にあったはずですが、あまり漁獲されていません。これは、現在でも変わりませんが、スズキの旬が夏で値段が高くなり、産卵期には安くなるためあまりスズキをとらなかったようです。また、釣りでは大量のスズキを水揚げすることはできませんので値段の高い時期にとり、旋網などのように、大量に漁獲できる網では安い単価は量で勝負しているようです。

7.洗いが最適

 どんな本にも、スズキは洗いが最高と書かれています。洗いのために存在する魚だとさえいわれるくらい、洗いにして賞味されています。あの暑い盛りのなかで、白く透き通ったすすぎ洗いをしたような白身を食べると、暑さも忘れるほど夏の一級品の魚といわれています。三枚に下ろして中骨や腹骨、血合いを切り取り、皮を引いて、尾のほうからごく薄く包丁で切っていきます。これを冷たい井戸水や流水にした水氷の中で何度も洗い、身がはぜてシャッキリとしたら水をきり、かたく絞った濡れ布巾の上に並べて水きりをします。器には砕き氷を敷き、大根、茗荷などのつまをのせ、洗いを盛り付けして、おろし山葵を添えるとでき上がりです。ちりちりした歯触りが最高だそうですが、このほかに刺身や握り寿司が一番で、炭火の強火で塩焼きにしてもおいしいそうです。

 スズキの料理法は、この魚が古くから饗膳食などに利用され親しまれてきたことから、いろいろな古書に紹介されています。16世紀以前に発行された「鱸包丁」には、刀ですばすばすっぽりと切った身を小鉢に入れて生姜酢で食べるとあります。この料理はなますだそうですが、室町時代の料理書「四条流包丁書」には、鯉はワサビ酢、鯛はショウガ酢、鱸はタデ酢、鱶(鮫)は芥子酢とあり、「大草家料理書」には、川でとれた鱸は刺身と生姜酢のなますがもっとも良く、煎酒によるなますは中くらいで、芥子酢はよくない、うしお汁にするのもよい、とあります。

 江戸時代前期の寛永20(1643)年に刊行された料理物語には、スズキは刺身、汁、やきても、なますに使い、なますとしては青酢か生姜酢を使うのがよい、とされ、なますに使う酢の種類が変わってきているようです。元禄8年(1695年)に発行された本朝食鑑(小野必大著)でも、スズキは汁となますがもっともよい、とあります。また、同書には、川のスズキは美味で脂が多いが有毒で、海のものは味が浅く脂が少ないが無毒であるとされ、中毒したときにはダイコン汁で解毒すると書かれています。

 また、元禄9(1696)年に刊行された茶湯献立指南には、スズキのわた汁は常の魚と違い、わたのきれいなる物也、あぶらわたあり、と記されています。本朝食鑑でも江戸時代の人々はスズキの腸を煮て食べていることが記され、この味はよく、脂も多いそうです。ただ、肝だけは食べると面皮がはげるので取り除いていたようです。

 このように、スズキは、長い歴史の中でも上品な魚としてもてはやされ、その料理はなますや刺身、汁などで珍重されてきましたが、この味は現代でも洗いとなって引き継がれています。


神奈川県水産総合研究所 2003
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