神奈川水総研 おさかな情報 さかなのあれこれ

資源が大きく変動し、近いうちにまた幻の魚となる魚

マイワシ

三谷 勇・舩木 修・樋田史郎 (2003年6月)

 マイワシは、カタクチイワシが増えてくると減少し、カタクチイワシが減ってくると増加してくる魚として知られています。

 最近では非常に少なくなってきたマイワシは、相模湾や相模灘でわずかに漁獲されていますが、他県ではあまり獲れないために、本県の旋網漁業者にとっては大きな収入源となっています。

 たくさんとれたときには、kg当たりわずか30〜50円しかしませんでしたが、最近では1,000円以上もしています。この高値ではどこの船でもマイワシを狙うのは当り前です。

 マイワシ資源が減少していく現象は地球規模で起こっていますので、だれもがこの現象を止めることはできません。いずれは、昭和30年代のように幻の魚になるに違いありません。

 そこで、今回は、幻の魚になる前に、マイワシの資源が増えたり減ったりすると、マイワシの体にどのような変化が生じるかをお話ししたいと思います。

目次

1.イワシの呼び名

 イワシは古来からよく知られた魚ですが、この魚が、なぜ、イワシと呼ばれるようになったかについては2つの説があります。

 その一つは、イワシが弱く死にやすい魚であることから、「弱し」が転じてイワシと呼ばれるようになったとする説です。享保2(1717)年「日東の爾雅(通称東雅)」(新井白石著)には、「イワシは弱し也。その水を離れぬれば、たやすく死するをいふ也」と記されています。また、江戸後期の天保2年(1831年)に発行された魚鑑(武井周作著)にも、「イワシはヨワシの転ずるにて、この魚至って脆弱なる故になづく」とあります。

 この説に対して、2つ目の説は、卑しい魚という意味で、イヤシが転じてイワシになったとする説です。元禄8年(1695年)に発行された本朝食鑑(小野必大著)には、「イワシは生臭く、コノシロのような死臭を放つので忌み嫌われている」と記されています。このコノシロの死臭というのは、紀元前210年に中国の秦の始皇帝が夏の暑い盛りに国内を巡幸していたときに病死し、皇帝の死亡を発表することを避けた側近たちが棺を乗せた車から死臭が漏れるのをごまかすために、コノシロを30kg一緒に積んで運んだという話からきています。

 また、平安時代の寛弘5(1008)年の秋から寛弘7(1010)年正月までのことを書いた紫式部日記には、貴族はイワシを下賎な魚としてさげすんでいたことが記されています。この話は後ほど詳しくお話ししますが、宮中ではイワシを御紫(オムラ)とか紫とか呼んでいましたので、表向きはさけて、裏で隠れて食べていたようです。

 この説ではイワシの生臭さが卑しいに通じてイワシの語源となっていますが、陰陽道では、イワシの頭は邪鬼を払うものとされています。節分にイワシの頭をヒイラギの枝に刺して戸口に飾るのは、イワシの生臭さで邪鬼を近づけず、ヒイラギの葉の棘で鬼の目を突くためだそうです。

 このいずれの説も一応納得できますが、イワシの漢字が古来から魚偏に弱い、鰯と書きますので、最初の説のほうが有力なようです。

2.鰯の漢字と地方名

 マイワシの漢字名は、鰯、鰮です。江戸時代の元禄8年(1695年)に発行された本朝食鑑(小野必大著)には、鰯をマイワシとし、魚偏に是でヒシコと読み、小鰯魚のカタクチイワシを示すとしています。

 鰯の漢字が歴史上に現われたのは、和銅3年(710年)3月に平城京が開都され、その閣僚の首班として活躍した天武天皇の孫長屋王の邸宅跡から出土した木簡にあります。それには、備中国小田郡鰯5斗と書かれています。備中国小田郡は現在の岡山県南西部にある笠岡市付近です。この地から奈良市の長屋王邸まではほぼ9日位かかりますので、生のイワシでは傷みが早くそのままでは都まで輸送できません。生で運べない弱い魚という特徴からも鰯という国字(倭字)を創り出したと考えられています。

 鰯の漢字ができる以前には、イワシは漢字の音によって3字で表わされました。イワシのイは伊、ワは和か委、シは之か志を使っていました。694年持統天皇によって都は奈良県飛鳥の藤原京に遷都されましたが、その都跡から出土した木簡に「熊毛評大贄伊委之煮」と「与謝評大贄伊和志」があります。評(こおり)は郡を表わし、前者は現在の山口県熊毛郡平生町、後者は丹後国(京都府)与謝郡です。ここで使われている漢字は鰯という漢字ができてからも使われており、平城京跡から「青郷御贄伊和志」や「名錐郷秋科里荒伊委之」の木簡が出土しています。前者の青郷は現在の福井県西部、若狭国大飯郡、後者の名錐郷は志摩国で、現在の三重県大王町波切にあたります。イワシのワの漢字で、和と委の使い方については、当時の文化圏の違いが関係しているといわれています。

 イワシといえば、一般にはマイワシのことですが、マイワシの地方名は、昭和57年に発行された新釈魚名考(栄川省造著)によると、福島では卑しい魚の意でイヤシを略してヤシと呼び、和歌山では体に黒い斑点のあることからあばた(カブという)と箍(樽や桶の周りを捲く輪のこと:タガという)でカブダカ、富山では猫が離れないほどうまい魚で猫がお守をするの意でネコモリ、広島県ではこの魚が外洋性で北方系の魚であることからロシアの異称でオラシャ、高知では虫の食ったようなくぼみをもつ銀箔仕上げの漆器(ギンムシクイという)に似た体をしていることからギンムシ、新潟では鳥のフクロウ(方言でドコ・ドオコという)に似て目の大きな魚であることからドコ・ドオコ、東北地方ではカタクチイワシの片口に対して上下の顎が同じ長さ(双口・両口)であることからモロクチ、京都府宮津では江戸時代の楽屋言葉で阿保・馬鹿者をキンタロウといいますが、この魚が愚かな魚であると意でキンタロウ、また、日本各地では大きいものから大羽、中羽、小羽と呼んでいます。昭和56年(1981年)に発行された日本産魚名大辞典によると、全長20cm前後以上のものを大羽、全長10〜12cm以上のものを中羽、これよりも小さいものを小羽と区分しています。関東近海では小羽のなかでも小さい6cm前後のものをヒラゴと呼んでいます。

3.マイワシの仲間

 マイワシはニシンの仲間です。学問上は、ニシン目ニシン亜目ニシン科マイワシ属に分類されています。大きく区分したニシン目の魚たちの特徴は、原始的な形質(骨格など)を多数もっていることで、硬骨魚類のなかでは最も下等な魚類として扱われています。たとえば、鱗が円鱗であること、主上顎骨が上顎の大部分を縁どり、多くはこれに1〜2個の上主上顎骨をそなえていること、鰭に棘条(硬い骨)がなく、腹鰭が腹位で多数の軟条(5本以上)からできていること、鰾は気道によって食道の背側につながっていること、眼には眼窩楔骨という原始的な骨があること、など原始的な骨がたくさんみることができます。

 原始的なニシン目の魚の祖先は、図1図1 (真骨魚類の先祖)に示したように、今から約1億6千500万年前のジュラ紀または約1億3千万年前の白亜紀に出現したイワシ型小魚でした。この魚は先に地球上に現われていたアミア類と現世の真骨魚類(ニシン目魚類など)をつなぐ魚類と考えられています。真骨魚類のイワシ類は、サメやエイ類と共に今から約2千万年前の新世代の第三紀.鮮新世に地球上に出現したといわれています。この時代は人間の祖先といわれるオーストラロビテクス(南のサルという意)が出現した時代ですから、イワシ類と人間は地球上では同期生になるようです。

 マイワシが属するニシン亜目には、コノシロ科、ウルメイワシ科、ニシン科、カタクチイワシ科などがあります。

コノシロ科の魚と他の科の魚の違いは、背鰭の最後の軟条が糸状であることです。この違いが最もわかりやすいと思いますが、このほかに上顎を形作る骨にも違いがあります。コノシロ科の魚は上顎が前上顎骨と主上顎骨で縁どられていますが、他の科の魚は上顎の大部分が主上顎骨で縁どられています。

 カタクチイワシ科とウルメイワシ科・ニシン科の魚の違いは口の大きさにあります。口が眼のある位置よりも後ろ側まで大きく裂けているのがカタクチイワシ科の魚で、他の2つの科の魚は口が小さく眼の下まで裂けていません。

 ウルメイワシ科の魚とニシン科の魚の違いは腹鰭のある位置が違います。背鰭の位置を基準にすると、ウルメイワシ科の魚は腹鰭が背鰭の後方にありますが、ニシン科の魚は腹鰭が背鰭の真下かまたは前方にあります。

 では、ニシン科のなかのマイワシ属とニシン属ではどこが違うのでしょうか。

 これらの違いは2点あります。その一つは、口の吻端に鋤骨という骨がありますが、その骨に歯があるのがニシン属、ないのがマイワシ属です。もう一つの違いは主鰓蓋骨(えらぶたの骨)に放射状に隆起した線がないのがニシン属、主鰓蓋骨の関節部から後下方に多数の放射状の隆起線が出ているのがマイワシ属です(図2図2 (マイワシの鰓蓋にある隆起線))。

 また、マイワシ類には、図3図3 (アメリカ産マイワシの頭蓋骨背面)に示したように、上耳骨の後端近くに弱く付着する細長い糸状の骨があります。この骨はosseous brush(筆状の骨)といいます。この糸状骨束の上部側方にも前後両端が刷毛状の骨があります。これをfilamentiferous rodといいますが、これらの糸状の骨をもっていることがマイワシ類の特徴となっています。

4、イワシの食料史

(1)縄文時代

 今から2,500年前の縄文時代には高度な釣道具、例えば回転式離頭銛や種々のバラエティにとんだ大小の釣針、網漁具等を使って漁撈活動が行われていました。貝塚でみられる魚は、岩手県大船渡市大洞貝塚・宮城県石巻市沼津貝塚では、イワシ類が最も多く、次いでサバ、スズキ、カワハギ、アイナメ等で、ときどきマグロ、オットセイ、アシカ等が漁獲されていました。

 関東地方の貝塚は内湾性漁業に属し、網漁具を用いた浅海や河口ではクロダイやスズキ、ハゼ、ウナギ、ボラを、湾口ではイワシ、クロダイ、イルカ等の骨が出土しています。神奈川県金沢区釜利谷の青ヶ台貝塚、横須賀市浦郷町の榎戸貝塚、同市鴨居の鴨居中台貝塚、同市浦賀の高坂貝塚、三浦市松輪の松輪間口東洞穴遺跡、同市諸磯の諸磯遺跡、藤沢市立石遺跡、茅ヶ崎市堤の堤遺跡からもイワシの骨が出土しています。

 福井県鳥浜貝塚ではイワシ、サバ、マダイ、クロダイ、スズキ、フグ、イルカ、シャチ等を焼魚や煮魚にして、イノシシヤクジラの動物性油やエゴマ等の植物性油を用いてフライにして賞味していたようです。

 熊本県轟貝塚からは、人骨に伴う糞石からマイワシ、カタクチイワシ、ハゼ等が検出されています。

 平成11年5月6日、海岸から50kmも離れた秋田県大館市池内遺跡からイワシ、ブリ、サバ、ニシン、サケ、ボラ、ヒラメ等の骨が出土しました。これらの魚の骨には、残存し易い鰓や歯等の頭の骨が全くありませんでしたので、漁獲した魚を天日干しや薫製、塩漬けにして海側の集落と内陸部が盛んに交流していたことが明らかになりました。

 また、弥生時代の遺跡である島根県松江市西川津遺跡から釣針等と共にクロダイ、スズキ、カンダイ、マイワシ、コチ、ハゼ、エイ、サメ等の魚骨が出土しましたので、縄文時代から引き続いて漁撈活動を行っていたことがわかりました。

 これらの貝塚・遺跡等からみると、海岸の集落ばかりでなく山中の集落まで日本の広い範囲にわたって、イワシが他の魚と共に縄文・弥生時代の人々によって賞味されていたことがわかります。

(2)奈良時代

 万葉の頃の食生活は正倉院文書、藤原・平城京跡から大量に発見された木簡等から知ることができます。大化元年(645年)に始まった大化改新により律令制が確立しましたが、平城京跡から、和銅3年(710年)に平城京に遷都したとき、閣僚首班として活躍した天武天皇の孫長屋王に貢納されたたくさんの品々が木簡のなかにみることができます。この中に、魚類の干物として、タイ、カツオ、スズキ、イワシ等があり、この他に、アユ、フナ、アワビの鮨、アユの煮干し、アワビの酢漬け、ホヤの造り等があります。

 藤原京には東西に二つの市が立ち、穀物、魚介類、海藻類、野菜類、果実、酒等が売買されていましたが、魚介類には干しアワビや干しイワシが並べられ、市司という市の管理者が商人から一定の手数料をとっていました。

 この当時の貴族食は、白米、ワカメ汁、アユ煮つけ、清酒等で、この中の海産物を主体にした加工食品は非常にバラエティに富んでいましたが、下級官人の食事は、玄米、青菜の味噌汁、イワシ煮つけ、糟湯酒となり、ここでイワシが食材として使われています。庶民の食事はさらに貧しく、玄米、アラメ汁、ゆでノビルと塩だけで、イワシは使われていなかったようです。

(3)平安時代

 貴族は極度に高い生活を営み、庶民は貧しい生活を余儀なくされ、ますます階級の差が増してきました。当時の宮廷政治は年中行事や儀式が政治そのものでしたので、儀式の格式・作法等ばかりでなく、儀式饗応の献立さえも法律で規定しました。延喜7年(907年)の「延喜式」はその規範となりました。延喜式に示された諸国物産の中で、鰯は若狭(福井)、備中(岡山)、備後・安芸(広島)、周防(山口)、紀伊(和歌山)、讃岐(香川)、肥後(熊本)から鰯汁や乾鰯、鰯の鮨にして貢進されていました。

 宮中では鰯という下賤な名前を嫌っていましたが、女房言葉に鰯のことを「御紫(おむら)」または「紫」といっていましたので、宮中でも実際には鰯を食材として使っていたようです。江戸時代に発行された国語辞典の和訓栞(谷川士清編)によると、源氏物語の作者紫式部は、下品な魚であったイワシをこっそり焼いて食べているところを、夫の左衛門権佐宣孝に見つかりなじられましたので、紫式部は

日の本にはやらせ給ふ石清水 参らぬ人もあらじとぞ思う

と和歌を読んで言い返したそうです。また、紫式部は、むらさきの色はあいにまさる、すなわち、イワシ(むらさき)がアユ(あい)よりもうまいと評しています。このことから、当時はイワシが一般庶民の間では旨いという評判の高い魚であったことがうかがえます。

 建暦2年(1212年)から15年かけて編纂された古事談(源顕兼編)によれば、後三条天皇の治世(1060年代)には鰯は良薬といえども公家(天皇)に供せず、鯖は苟物(くぶつ)といえども供御に備ふ、とあります。イワシは栄養価があることは認識されていましたが、天皇は食べなかったという話です。この時代には、干しイワシは煮出しして濃縮し、その汁に塩を加えて煎汁として使用したようです。

 延喜式には、全体として海産物の魚種はあまりありません。納税などによって集められた食材で生活する貴族は魚の数も少ない不自然な食生活をしていたのにひきかえ、地方の庶民は古代の延長として健康的な食生活をしていたようです。京の東西市では米、味噌、油、生魚、干魚、塩魚、菓子等の必需品が売られていました。新猿楽記(平安中期、藤原明衡著)には、平安京の西京に住む馬借車借の妻が次のような食品を食べたことが記されています。鶉目の飯、鯖の粉切、鰯の酢煎、鯛の中骨、鯉の丸焼等。また、同書には、越後(新潟)の鮭、近江(滋賀)の鮒、周防(山口)の鯖、隠岐(島根)の鮑、伊勢(三重)の鰤等と共に伊予(愛媛)の鰯が諸国のお土産としてあげられています。これは、多少魚種が増えているものの、古代とさほど変化がないようです。

 これらのことから、表向きには貴族はイワシを食べず、庶民に広く食されていたようですが、イワシはこの頃から下品な魚として他の魚と差別されるようになってきています。

(4)鎌倉時代

 建久3年(1192年)鎌倉幕府の成立と共に平安貴族が管理する荘園制がくずれ、古代から続く庶民食で生活していた武士団が登場するようになってきました。この時代の武士や庶民は、675年天武天皇によって制定された畜類の殺生禁令を守ってきた平安貴族のように四足獣の肉を食べない習慣がありませんでしたから、食品の自由な選択を行うことができました。

 家庭の教訓を手紙文の形式で述べた庭訓往来(僧玄恵作)には、タイ、スズキ、アジ、サバ、イワシ等を日常食としてあげています。また、京都には米座、相物座(魚塩商)等の商人によって全国から京都に集められた物産の中で、周防(山口)のサバ、隠岐(島根)のアワビ、越後(新潟)の塩引、蝦夷(北海道)のサケがあり、この中に肥前(長崎)松浦のイワシがあげられています。これらの品々は平安中期の新猿楽記(藤原明衡著)に示された特産物と多少共通していますが、イワシのように地域的に広がってきたものもみられます。

 鎌倉末期には生魚商人が京都ばかりでなく、若狭湾の各浜や伊予(愛媛)の弓削島等の各地で魚貝商人や塩商人が活躍し、本格的な貨幣、商品の流通が始まるようになってきました。元亮2(1322)年備前国(岡山)西大寺の魚座に陸揚げされた海産物の中に鰯がみられ、この鰯は摂津(大阪)、播磨・淡路(兵庫)、備前(岡山)、備後・安芸(広島)、讃岐(香川)、伊予(愛媛)の各地で生産されたことが示されています。また、この時代には、魚鳥調理専門の庖丁師という特別な職人が現われてきました。

(5)室町時代

 元中9年(1392年)南北朝が統一され、足利政権は京都室町に幕府を開き、宮廷貴族の生活を前にして政務をとっていました。かっての平家と同じように、ぜいたくな消費生活に慣れ、封建武士の棟梁としては徐々に認められなくなってきました。中央政権の弱体化に反して徐々に地方武士が台頭し、応仁元年(1467年)将軍家系継承問題を契機に応仁の乱が起こり、戦国の乱世となりました。

 この時代の武家社会では公家社会と共に飲食の形式を重んじるようになってきています。この当時、調理法の発達や茶、禅の影響もあって、調理技術、配膳や飲食の作法、食事の席上の礼儀作法等を示した庖丁家の料理流派が現われました。この包丁家のうち、大草、進士の両流派は武家に、四条流は公家に重んじられました。また、一般庶民の中にも武家社会と同じように下剋上的意識が生じ、古代のままの素朴な食生活を守り続けてきた庶民も貴族の贅沢食を真似るようになり、貴族食と庶民食の差が少なくなってきましたが、イワシはこの時代にも下品な魚として扱われたらしく、大事な行事食には使われていません。

 あまり貴族には見向きもされなかったイワシですが、この時代には漁民と仲買商人とが専業化したばかりでなく、漁場では各魚種に対応した網が考案されるようになりましたので、イワシの生産量も急激に増大してきたと考えられます。

(6)安土桃山時代

 この時代の食生活は前代と変わるところがありません。若き日の秀吉も動物性蛋白質やカルシウムをイワシの干物からとっていたと考えられています。天正16(1588)年7月8日、秀吉による「海上賊船の禁令(海賊禁止令)」が出され、天正19(1591)年の「人掃令」により一般の百姓夫役と区別された舟人(加子)の人数を調査しています。これを基にして、朝鮮出兵に当たって大規模な加子動員を行っています。翌年、諸大名も船・水手の調査を行い、全国津々浦々の漁民に賦課された水主役が近世の漁村の秩序を成立させています。

(7)江戸時代

 慶長5(1600)年、関ヶ原の合戦で勝利した徳川家康は、その3年後に征夷大将軍となり、徳川政権の基を築きました。戦乱のない近世には都市が発達し、食料の供給を担う農業が発達しましたが、この農業の発達は肥料としての干鰯の需要を増大させてきました。

 江戸初期では文化の中心は上方で、大阪では相当量の干鰯の需要があり、これを賄うために、大阪の干鰯商人は当時未発達であった地域で漁業を開発・発展させることに努力しました。関東より先に開発された壱岐、対馬、五島等は紀伊や和泉の漁民により開発され、関東でも同じく紀伊や和泉の漁師が出稼ぎ、やがて移住して干鰯を生産し、大阪に送るようになりました。寛永19(1642)年、東浦賀干鰯問屋が大阪送りの中継地として設立され、元禄末期(1700年)頃から江戸干鰯問屋との競合が激しくなりはしましたが、この問屋は明治時代まで存続しました。

 江戸時代のマイワシの漁獲状況を古文書等から推察すると、正保〜享保年間(1640〜1716年)は豊漁、元文〜明和年間(1736〜1768年)は著しく減少しましたが、寛政年間(1789年)頃から再び増加したものの、その後もイワシの来遊は少なく、江戸末期の安政7(1860)年も不漁が続きました。ところが、元治元(1864)年には突如急激に増加しましたが、これは一時的なもので、明治に入っても不漁が続きました。このマイワシの不漁は干鰯から鰊搾粕へと移る一因にもなっています。

 江戸初期の寛永20(1643)年に発刊された料理物語によると、鰯は「なます、しゃか汁、焼物、煮物、田作、たたみいわし」等に用いられています。元禄8(1695)年に発行された本朝食鑑(小野必大著)によると、鰯の鮮魚はなますや塩漬、糟漬、塩麹漬(黒漬という)にし、乾したものは下品とされています。この魚は大体庶民の食で、官家ではあまり食べないとされていますが、その味は特殊で賞すべきものであるので、常州(茨城)水戸、予州(愛媛)宇和、肥州(長崎)松浦から貢献された鰯を官家でも時々賞味していた、と記されています。

この頃の京都で販売されていた鰯は泉州(大阪)岸和田、勢州(三重)桑名のもので、この他に若州(福井)、丹州(京都)、四国、西海からのものでした。江戸でもイワシが盛んに荷揚げされ、南は相州(神奈川)、豆州・駿州・遠州(静岡)、参州・尾州(愛知)、勢州(三重)、泉州(大阪)、紀州(和歌山)、東は房総(千葉)、常州(茨城)、羽奥(山形・秋田・青森)、蝦夷(北海道)から多く運ばれてきています(図4図4 (各年代におけるイワシの主な産地))。

江戸時代の地方の特産物を「日本諸国名物尽」からみると、鰯は丹後(京都)、伊予(愛媛)の宇和鰯、駿河(静岡)の白洲干があります。これらのイワシは棒手振売り(または担売り)によって「エー、いわしこい、エー、いわしこい」のかけ声で売られ、江戸庶民の常食のおかずとして用いられています。

 田舎の山海の人々は鰯汁にして用い、民間の日用品として一日たりともなくてはならないものであったといいます。江戸庶民の日常食のうちのおかずについて、「日用倹約料理仕方角力番附」の魚類方をみると、庶民の食前に上がった魚類はイワシ、マグロ、コハダ、塩鰹等が多く、将軍が食べない魚が多くみられます。江戸庶民は、鰯汁の他に鰯飯(料理調法集)、鰯塩辛等に調理しています。

 文政年間(1818〜1830年)、本所横網町に鮨屋を開店した花屋与兵衛が握り鮨を始めたという説があります。鮨はもともと上方の箱鮨のことでした。享保15年(1730年)料理網目調味抄(嘯々軒宋堅著)によると、鯛、鱸、鰆等と共に鰯がこけら鮨に使用されていました。こけら鮨は箱鮨の類で、材料の魚の身を薄く切って酢飯の上に乗せると魚の身がこけら(木屑)のように見えることから名付けられています。

 また、天和2(1682)年に発刊された好色一代男(井原西鶴作)に主人公の世之介らの酒席に雁の板焼、赤鰯が用意され、庶民の間に鰯がよく利用されていることがわかります。元禄5(1692)年に発行された世間胸算用(井原西鶴作)に庶民の間でも正月三ヶ日に鰤、塩鯛と共に赤鰯も用意されている様子が描かれています。赤鰯はマイワシのことで、沖から来遊するときに波が血のように赤くなるといわれ、これは鰯の鼻が赤く光るためと江戸ではいわれていました。マイワシは鯨が来るときに多く、カタクチイワシは鰹の来るときに多いと本朝食鑑(小野必大著)に記されています。このように江戸庶民はイワシを食べることができましたが、奉公人には月に3回ほどしか魚がつかなかったようです。

 このように江戸庶民にとってはなくてはならないイワシも、将軍には出してはならない禁忌食品でしたが、大名の食事や宴会にはタイ、カレイ等と共にイワシも用いられていました。出羽米沢藩30万石上杉家と豊後臼杵藩5万石稲葉家屋敷跡からこれらの魚の骨が出土しています。

 一方、江戸時代の公家は経済的に恵まれていませんでしたので、正月二日の御かがみの祝には、白御鏡餅の上に乗せる塩アユ2尾の代わりに鰯が用いられていたそうです。

 また、マイワシは食料や肥料ばかりでなく、陰陽道(中国の易:天地万物はすべて陰陽の二つの気からなり、この二つは相反する性格を持つ。この性格を利用し、吉凶を定め、福を招き災いを避ける術)では、鰯の頭はよく邪気を祓うとして使われています。節分の夕方に、鰯の頭を柊の枝に刺し、門の上や壁に掛けると、その家に入ろうとする邪疫を駆逐すると考えられています。

 江戸時代後期の東京湾では、種々の漁業が営まれて、時として漁業紛争が生じていましたので、文化3(1816)年6月武蔵、相模、上総三国沿岸の44浦の名主、漁業総代等が神奈川浦で会合し、「内湾漁業議定一札の事」という契約を行い署名捺印しました。武蔵(東京)からは金杉浦〜羽田浦、相模(神奈川)からは生麦浦〜久里浜村、上総(千葉)からは富津村〜木更津村の44ヶ村が参加しています。この議定書には内湾で行う漁業種類を38種類(当時は職という)と定めていますが、イワシを漁獲する漁法には手繰網(うたせ網)、八田網、地曳網、小晒網(こざらしあみ)などがみられます。

 小晒網は文化年代前(1804年以前)に浦賀付近(鴨居・走水・久里浜)を中心に南北に伝播し、明治元(1868)年、城ヶ島及三戸村に、明治15、16年頃長井村に、それ以後沿海の各地に普及しました。この網の発達によって、既存のいわし漁業の二隻張・三隻張漁業(俗に大網漁業という)や釣漁業と漁業紛争が生じました。文化7(1810)年、相州(神奈川)三浦郡鴨居・走水・浦ノ郷・長浦・横須賀・公郷・大津・久里浜の8村と上総国13村代表富津村との間に小晒網を早春より7月15日まで禁止する契約書を取り交わしました。これは、湾口付近で小晒網を使用すると、内湾に回遊するイワシの妨げになるためで、この契約は明治維新までよく守られていました。

 一方、蝦夷のアイヌの人々によって始められた鰊(ニシン)漁は、文安4(1447)年、陸奥(青森)の馬之助が和人として始めて松前で漁を行いました。これから以後、多くの和人が蝦夷に渡り、あるものはアイヌの人々と交易し、あるものは直接鰊漁を始めました。享保年間(1716〜1735年)には端鰊、身欠鰊、丸干鰊、数の子、白子、寄鰊子等が内地に移出され、鰊漁業は文化期(1804〜1817年)に大網の使用許可、蝦夷地場所請負人の増加、松前福山・江差地方の漁の回復等により著しく発達しました。江戸中期以降には、天保期(1830〜1843年)には総額15万750石であったものが、安政元年(1854年)には24万2116石となりました。この中でも肥料の製品の移出が著しく伸びています。内地で魚肥の需要が増大し、これに支えられて大網の使用が許可され、鰊の大量漁獲が可能となり、肥料の鰊搾粕(しめかす)の製造が目立つて多くなってきました。文久3(1863)年には八軒の箱館問屋扱いの鰊搾粕だけで14万3000石となり、蝦夷地全体では莫大な量が本州各地に販売され、鰯魚粕市場を圧倒するようになっていきました。

(8)明治時代

 慶応3(1867)年10月14日、江戸幕府の第15代将軍徳川慶喜が大政奉還を行い、翌明治元(1868)年3月、五カ条の御誓文が公布され、明治政府が樹立しました。明治4(1871)年7月、明治政府は廃藩置県を断行し、近代国家としての中央集権体制を確立しました。

 明治維新になって、日本人の食習慣の中に長く存在した肉食禁忌も文明開化の中ではもはや通用しなくなり、明治5(1872)年、明治天皇が前例を破って初めて牛肉を賞味しました。このことは、牛肉食がそのまま文明開化の象徴であると世間で信じられるようになっていきました。ちなみに、明治5年の西洋料理指南と西洋料理通にカレーライスの製法が載っており、時代の経過と共に日本風の味に変えられていきます。

 明治時代前期の漁業生産量は伸び悩みの状態にあったと推測されています。それは、維新後の漁業制度の再編成と漁業生産の振興対策、中でも優良な漁具漁法・漁船の開発、普及に力を注ぎ、近代漁業の技術体系に導く過程にあったためです。明治16(1883)年、第1回水産博覧会を開催するなど漁船の動力化、綿糸の漁網への利用は明治政府の主要な政策でした。

 イワシ漁に関する漁具漁法がどのように技術革新されてきたかは江戸時代中期にまでにさかのぼらなければなりません。イワシを漁獲するために使用していた漁具には、小晒網という流網、揚繰網(あぐりあみ)という旋網、この他に地曳網、八手網がありました。その一部の漁法をみてみましょう。

【小晒網】

  維新後、種々の慣例が廃止され、湾口の小晒網もこの契約を破るものが出てくるようになりました。明治11(1878)年に千葉県が、明治14(1881)年に神奈川県が小晒網の禁止期間(1月1日〜7月30日)を設けました。しかし、この規則も守られなかったので、神奈川県は、明治27(1894)年、禁止期間を2月15日から5月25日と短縮し、そのかわりに罰則規定を設けましたが、小晒網は増加し、明治36年頃には543ヶ統となりました。このように、小晒網は県の禁止令にもかかわらず発展していき、沖合いで操業する最も能率のよい漁法でした。

【改良揚繰網】

旋網は江戸時代初期から使用され、江戸時代を通じて様々な網が開発されましたが、粗悪な網材料のためにその能力を沖合いで発揮することはできませんでした。明治21(1888)年頃、九十九里浜の海上郡椎名内村において、千本松喜助・石橋太郎兵衛らの努力によって改良揚繰網が開発されました。この網は、長さ106間、幅21間程の麻網で、漁船2隻、漁夫26人で操業しています。従来からある地曳網や八手網は数十人から100人位の漁夫を必要とし、地曳網では魚群の来遊が必要で、八手網は潮流の方向や魚群の回遊方向によって操業が制限される欠点がありました。

改良揚繰網は既存の地曳網と漁業紛争が生じ、漁場制限等の試験操業を行い、その結果、明治26(1893)年10月千葉県から正式に許可されるようになりました。この間、九十九里浜の大地曳網主らの地曳網主から改良揚繰網主への漁業転換はみられませんでしたが、八手網主は明治28(1895)年頃までに改良揚繰網主へ転向するか廃業するかしかなかったようです。

 青森県では明治24(1891)年に八戸の長谷川藤次郎が千葉から改良揚繰網を持ち返り使用し、山形県では先の長谷川から明治29(1896)年に導入し、秋田県では明治30(1897)年に山形県から移入したといいます。石川・福井両県はそれぞれ明治28、30年に千葉県から実習し、茨城・静岡・鳥取・島根・兵庫・岡山・広島・山口・徳島・高知・福岡・長崎・宮崎の各県で試験と導入が行われました。

 我が国の農林統計のうち漁獲高の収集が始められたのは明治27(1894)年からですが、総漁獲量をみると、明治27年は約16万トンで、その後明治44(1911)年まで横這いで推移し、伸び悩みの状態にありました。それが上昇傾向に転じたのは大正期以降でした。

明治時代のマイワシの漁獲量は、江戸時代前期の正保〜享保年間(1640〜1716年)の豊漁から、一時的な増加が見られたものの、その後も減少し続けました。

明治政府の農商務技手多川勇の行った小晒網の調査結果からみると、神奈川県のマイワシ漁獲量は、明治12(1879)年に25トン、明治15(1882)年に61トン、明治17(1884)年に134トンと増加しましたが、その後、明治19(1886)年に31トン、明治22(1889)年に9トンと減少し、明治35(1902)年にはカタクチイワシに混獲されてわずか3トンしか漁獲されませんでした。

この時の調査ではマイワシの漁獲量から肥料の鰯魚粕の生産量を算出しています。普通マイワシ1桶(約15.6kg)で搾粕(しめかす)約3.46kgが生産され、原料の2割2分5厘の製品ができたそうです。ちなみに、三浦郡沿岸におけるイワシ肥料生産量は、明治21年には約15トン、翌22年には124トン、明治25年には17トンと、マイワシの漁獲が減少すると共に肥料の生産量も減少しています。以後、マイワシは明治末までわずかしか漁獲されず、低迷が続いています。

(9)大正時代

 明治27(1894)年の日清戦争、明治37(1904)年の日露戦争、大正3(1914)年の第1次世界大戦の勝利により、我が国の水産施策は北洋漁業の拡大、南方漁業の開発が推進され、漁船の動力化の普及と共に大型化が進められていきました。明治44(1911)年に無動力船が約42万隻で、動力船はわずか957隻であったのが、大正14(1925)年には無動力船が約34万隻と減少し、動力船は12,705隻と約13倍にも増加しています。北洋漁業の発達は蟹工船という近代的な漁船を生み、農商務省を農林省、商工省に分離させることにつながりました。

 大正に入っても、マイワシの漁獲量は依然として低迷していましたが、明治末から年々徐々に増加傾向を示していました。明治38(1905)年の新潟県では地曳網のカタクチイワシに代わり沖合いで鰯流刺網が行われるようになり、青森・秋田両県では明治40(1907)年頃からニシンの減少に伴いマイワシの流刺網が行われるようになってきました。明治末には毎年20万トン前後であったものが、大正元(1912)年には25万トン、大正7(1918)年には34万トンとなり、大正12(1923)年9月1日に突如として襲来した関東大震災においても51万トンを漁獲し、大正14(1925)年には58万トンと増加してきました。

神奈川県のマイワシ漁獲量は、図5図5 (神奈川県におけるマイワシ漁獲量の年推移)に示したように、全国の漁獲量と同じ傾向をたどり、大正4年には約360トン、大正8年には約468トン、大正12年には約1706トンと増加していきました。

この頃のマイワシは、大正13年神奈川県漁村調査書によると、小晒網や巾着網、地引き網、八田網、棒受網、定置網などで漁獲されていました。漁獲量は、この調査では、イワシ類は約154万貫(5797トン)と最も多く、次いでサバ類が多く漁獲されています。

 当時の漁法は、三浦半島沿岸を中心にして巾着網がマイワシを多く漁獲し、特に、東京湾側の横須賀市浦賀から三浦市南下浦町金田にかけて非常に多く漁獲しています。東京湾の奥では、生麦沖で小晒網によって漁獲されていますが、その漁獲量はわずか約16トンしかありません。また、小晒網が盛んであった三浦市城ヶ島から相模湾沿岸を西にいくに従いマイワシの漁獲は少なくなる傾向にあります。相模湾西部ではわずかわずか約22トンしかありません。

漁獲したマイワシは、三浦半島沿岸では、カツオやアジ、サバ、カサゴなどの釣り餌とされ、鮮魚としては東京や京浜地区に出荷されています。また、三浦市上宮田地区や横須賀市長井地区では漁獲物の一部は煮干しに加工され、大阪や名古屋、東京、伊勢方面に出荷されています。釣り餌の値段は、三浦半島沿岸では1貫あたり40〜60銭でしたが、鎌倉地区周辺では25〜33銭と安く、スズキの釣り餌として使われていました。

(10)昭和時代

 昭和の初めは、我が国が軍事体制に入っていく時代でした。昭和3(1928)年の5.15事件、昭和6(1931)年の満州事変の勃発、昭和11(1936)年の2.26事件の発生に伴い軍国主義が台頭し、昭和12(1937)年には日華事変が起こりました。翌昭和13(1938)年には国家総動員法が公布され戦時体制が強化され、日本民族を破綻に導いた第2次世界大戦へと突入していきました。翌昭和14(1939)年の国民徴用令は食料生産の重要な担い手である漁業者まで徴用されるようになってきました。

 経済界は、昭和6・7年頃一時的な不況になったものの、その後、経済界の好景気と油脂工業の発達に支えられて漁船も増加・大型化され、マイワシの漁獲量は大正末からさらに増加していきました。昭和元(1926)年のマイワシ漁獲量は53万トン、昭和6(1931)年には103万トンと100万トンを超え、昭和11年には163万トンと、この時代の最高の漁獲量となりました。この頃には朝鮮沿岸でもマイワシの漁獲がみられ、翌昭和12年には139万トンとなり、朝鮮沿岸で最高の漁獲を示しました。

 昭和16(1941)年12月8日、太平洋戦争が勃発しました。年々の軍事体制の強化と共に、漁業界はガソリンの統制や綿製品の製造販売禁止等の戦時体制の影響をこうむり、我が国の漁業総生産量は減少していきました。昭和11年の総生産量は433万トンでしたが、昭和15(1940)年には353万トンとなり、終戦の昭和20(1945)年にはわずか182万トンと、昭和11年の総生産量の42%まで減少しました。

 マイワシ漁獲量も総生産量と同じく年々減少し、昭和15年には87万トンと昭和11年の最高漁獲量の半分となり、昭和20年にはわずか26万トンにまで減少しました。この漁獲量は昭和11年の最高漁獲量の16%にしかすぎません。戦争が激化した昭和18年から19年にかけて、わずか4ヵ月の間に333隻(138万トン)の漁船が喪失し、昭和19年の漁業者数(男子)は昭和11年に比べて33.6%も減少しました。特に、漁業の主力年齢の60歳以下は41%も減少しました。

 また、昭和15年から生鮮食料品に対する価格統制が実施され、昭和16年には鮮魚貝配給統制規則が交付され、昭和17年には水産物配給統制となりました。ちなみに、六大都市の1人1日当たりの水産物入荷量によると、東京の場合、昭和15(1940)年には113gであったものが、翌昭和16年には77g、昭和18年には61g、昭和20年にはわずか26gとなりました。

 戦時下における東京魚市場への水産物の入荷量は、昭和12年度に18万トン、昭和16年度には20万トンと増加しましたが、昭和17年度には17万トン、昭和18年度には16万トンと減少し、終戦時の昭和20年には4万トンと極端に低下しました。このことからみても、漁業生産の労働力が極端に不足し、かつ、漁船、資材の不足が漁業生産に大きく影響していたことがわかります。

 昭和20(1945)年8月15日、太平洋戦争は終結し、昭和21(1946)年11月3日新憲法が発布され、主権在民、戦争放棄など平和国家の日本が誕生しました。屈辱的な打撃を受け敗戦となった我が国の国民は食料難と共に茫然自失に陥っていました。政府はいち早く食料確保のために漁業の民主化に取り組み、北洋漁業の再開を初めとした国際漁業が展開され、漁業生産量が年々増加していきました。この間、漁業制度は、昭和23(1948)年7月に水産庁が発足し、同年12月に水産業協同組合法が、翌24年12月には新漁業法が制定されました。さらに、昭和25(1950)年には漁港法が、昭和26(1951)年に水産資源保護法が制定され、漁業の再建施策が実施されるようになりました。

 終戦直後の昭和20年の総漁獲量は182万トンと戦前の1/2にまで低下した。昭和22年には229万トン、昭和24年には276万トン、昭和27年には482万トン、昭和30年には491万トンと年々増加しましたが、この大部分は「沿岸から沖合いへ、沖合いから遠洋へ」という施策によって漁船が大型化され、国際漁場の開拓の成果によるもので、戦争によって荒廃した沿岸漁業は容易に回復しませんでした。

 神奈川県の漁船動向をみると、大正4、5年頃動力漁船が初めて作られ、大正12、13年には300隻程度、昭和7、8年には1,400隻に、昭和15、16年には1,800隻余に増加しました。しかし、戦争が激烈になった昭和18年度より大型漁船が次々と徴用され、沈没あるいは大破し、全動力漁船の3割が減少し、遠洋漁船は全滅に陥りました。また、小型動力漁船や無動力漁船も、戦時中の新船建造や補修がほとんどできませんでしたので、終戦直後には大修理を要するほど老朽化していました。昭和21(1946)年頃から食料増産を目指す国策により大中漁船が建造され、小型漁船の建造・修理が進みました。昭和22(1947)年における神奈川県漁船総トン数(5トン以上)は東京都、山口県に次いで全国第3位に位置し、ジーゼルエンジンの動力漁船では全国第1位を占めていました。

 イワシを漁獲対象とする東京内湾における鰯揚繰網は、昭和21年では17ヶ統、昭和22年では15ヶ統実際に操業し、その水揚量はそれぞれ5,625トン、1,538トンでした。東京内湾では9、10月を最盛期にして8月頃から12月頃まで操業していました。相模湾・三浦半島周辺の鰯揚繰網は周年操業していましたが、特に5〜8月は鰹釣漁業の餌料を補給する漁場として重要な役割を果たしています。その水揚量は、昭和21年には3,750トン、昭和22年では5,625トンでした。

 また、相模湾には鰤網等の定置網が張り立てられています。イワシを漁獲対象にしている定置網は猪口網といわれ、三浦半島周辺の沿岸に張り巡らされています。昭和21、22年度には、鰤落網8ヶ統、雑魚落網(春網)7ヶ統、雑魚落網(秋網)12ヶ統、猪口網55ヶ統、桝網13ヶ統、合計96ヶ統が操業し、その水揚量は昭和21年度では4,463トン、昭和22年度では7,200トンでした。

 では、これ以後のマイワシの漁況をみてみましょう。

5.最近のマイワシ漁獲

 マイワシの全国漁獲統計は、図6図6 (全国のマイワシとカタクチイワシ漁獲量の年変化)に示したように、明治38(1905)年からみることができます。約100年間の漁獲統計があるのですから、マイワシについてはいろいろなことがわかっていると思われがちですが、生態や生活史の研究は昭和28年頃から始まりましたので、まだまだわからないことがたくさんあります。

 江戸時代の後半に豊漁であったマイワシ資源は、明治時代に入ると、一時期を除いて1年間に10トン位しかとれない不漁となりました。マイワシが減ると、代ってカタクチイワシが豊漁となりましたが、当時はマイワシを肥料として使っていましたので、カタクチイワシだけではまにあわず、蝦夷のニシンが肥料として使われました。

 マイワシは大正時代に入ると、徐々に増え初め、昭和10年前後には130〜150トンの大豊漁となり、明治時代後半の約10倍以上もとれるようになりました。しかし、これも長くは続きませんでした。第2次世界大戦のために漁船が徴用され、沈没あるいは大破し、マイワシをとる漁船が少なくなってしまい、終戦時には、マイワシの漁獲量はわずか15万トンにまで減少しました。

 終戦直後に漁獲された東京湾のマイワシは、戦後の食料難を補う強力な食料として大事にされ、徐々に漁獲も増え、昭和26年には37万トンと戦前の大豊漁時の3分の1位にまで回復しました。しかし、この年を最後にして、マイワシの漁獲量は減少し始め、昭和30年には21万トンにまで少なくなりました。この頃のマイワシは幻の魚と呼ばれていました。

 マイワシ資源は、昭和47年から徐々に年々増え始めて、昭和59年には全国の総漁獲量は400万トンを超えてしまいました。この年の日本全体の総漁獲量は約1,300万トンですから、約3分の1強がマイワシが占めていたことになります。

 この大豊漁は平成元年まで続きましたが、翌平成2年から減少し始めました。それでも平成2、3年は300万トン台の高い漁獲でしたが、翌平成4年には約220万トン、平成5〜6年には約150万トン前後となり、平成7年には100万トン台を割り66万トンに、平成9年には28万トンにまで減ってしまいました。この減り方が異常なほど急速でした。これが平成13年には18万トンにまで減少しています。

 マイワシが増え始めてから最高の水準に達するまでに約12年間かかっていますが、減り始めるとわずか6年で昭和47年の漁獲水準になってしまいました。この間に、マイワシ資源にどのような変化が生じていたのでしょうか。

 マイワシ資源の状態が推測できるようになった年代は、多くの古文書が発行されるようになった室町時代以降のことです。

 今から440年前の時代にまでさかのぼってマイワシ資源の変動をみると、多くの古文書から推定されたマイワシの豊漁期は、

  (第1回目)室町〜安土桃山時代の永禄3年(1560年)〜天正8年(1580年)

  (第2回目)江戸時代の元禄3年(1690年)〜享保5年(1720年) 

  (第3回目)寛政2年(1790年)〜文政13年(1830年) 

  (第4回目)明治43年(1910年)〜昭和15年(1940年) 

  (第5回目)昭和47年(1972年)〜平成8年(1996年)

の5回が考えられます。

 室町時代から昭和の時代までに発生した4回の豊漁間隔からみると、約70年から約110年の間隔で豊漁期が出現しています。このことから、マイワシ資源の豊漁期は約100年前後と考えられていましたが、今回の第5回目の豊漁期は今まで考えられていた期間よりも極端に短く、40年間隔になっています。この原因はよくわかっていませんが、今回の豊漁期から多くのことが観察されました。

6.どこから増えてくるか

 まず、発生源となった海域はどこでしょうか。マイワシはどこの海域から増えてきたのでしょうか。

 第4回目の豊漁期が終り、マイワシ資源は少なくなった昭和26年頃には、太平洋側ではほとんど漁獲がなく、日本海でマイワシが多く獲れました。このマイワシがどんどん少なくなってなると、マイワシの漁場は日本海の北側に片寄り、昭和30年(1955年)には青森県鯵ヶ沢沖だけでしかとれなくなりました。

 この非常に少なくなってきたマイワシを秋田・石川両県の漁船が魚群を追って操業していましたが、その後、このマイワシ魚群は津軽海峡を抜けて太平洋に入り、三陸沿岸を南下しながら房総沖まで回遊してきました。マイワシ魚群は日本海から太平洋に移住してきたのです。マイワシは、図7図7 (日本の周りを一周したマイワシ資源)に示したように、ちょうど日本の周りを時計周りに一周したことになります。

 この魚群は太平洋岸の各県沖に散らばり、昭和40年には各県で数100トン位ずつ漁獲されるようになりました。昭和60年頃のマイワシの最高漁獲量は449万トン(昭和40年の約5万倍)ですから、昭和40年頃の漁獲がいかに少ないかがわかります。

 ところが、昭和43年(1968年)頃から神奈川県沖や静岡県沖でマイワシの漁獲量が急に増えてきました。昭和43年の神奈川県のマイワシ漁獲量は昭和41年の漁獲量の33倍、翌44年には36倍と増え、静岡県でも25倍と増えました。この頃のマイワシが増えるきっかけをつくりました。

 そして、昭和46年には神奈川県で昭和41年の25倍、愛知・三重県では70倍以上と増加しました。翌47年には各県で20倍前後の漁獲となり、この魚群の生き残りがよく、大きな資源となりました。この大きな資源を卓越年級群といいます。

 こうして、マイワシが関東近海から増え始めました。

 日本のマイワシ漁獲量は、太平洋側で多くとれる時代には豊漁となり、日本海側でとれる時代には不漁となりますが、豊漁のなる源は関東近海にありました。

7.分布海域の拡大と縮小

 昭和47年の卓越年級群が2年後にたくさんの卵を生み、大きな資源を作り、さらに2〜3年後にまた多くの卵を生み、卓越年級群を作り出していきました。47年の卓越年級群からどんどん資源が大きくなり、昭和60年には最高の資源になっていきました。

 資源が大きくなってくると、マイワシの生活する場所も窮屈になってきます。太平洋側のマイワシは餌を求めて北上し、分布海域を北の方に拡げていきました。

 北海道東沖のマイワシ漁獲量は年々増え続け、昭和62年(1987年)には最高の漁獲量となりました。昭和47年を増え始めた年とすると、マイワシは15年間もかけて勢力を北の海にまで拡げたことになります。昭和62年というと、日本のマイワシ漁獲量が400万トンを超えて最高の勢力を誇っていた時代でした。

 しかし、この栄華を極めたマイワシも翌年から減り始め、北の海から撤退し始めました。そして、昭和62年からわずか3年後の平成2年にはほとんどとれなくなりました。

 マイワシが北の海から撤退し始めると、そのスピードは早く、図8図8 (各海域におけるマイワシの最高漁獲年から獲れなくなるまでの年数)に示したように、三陸沖では4〜5年で、常磐・鹿島灘では7年間で、九十九里・房総沖では81年間でほとんどマイワシがとれなくなりました。

 マイワシは、増え続けている間は非常に長い時間をかけて北に拡がっていきますが、資源が減り始めると急速に分布海域を縮小し、北の海から撤退していきました。

 ところが、増加のきっかけをつくった相模湾や相模灘などでは、なかなか漁獲が減りませんでした。減るどころか、逆に増え始めたのです。相模湾や相模灘ではつい最近まで高い漁獲が続いていますが、昨年あたりから極端に減り始めてきています。危険信号です。ここでとれなくなると、太平洋岸のマイワシは再び幻の魚となります。

8.増えると小さくなり、減ると大きくなる!

 では、マイワシは、仲間が増え続ける間、餌を十分にとれたのでしょうか。我々人間も人口があまりにも増えると食料難になることが歴史的にも知られていますが、マイワシには食料難がないのでしょうか。

 マイワシの年齢は鱗にできる輪紋によって知ることができます。この鱗紋ができる時期は11月から翌年1月で、この時期はマイワシの産卵直前に当たります。生まれてちょうど1年で鱗紋ができるのですから、年齢を調べるのには好都合です。

マイワシは、生まれた年の年末には13〜15cmに成長します。マイワシの大きいものでも25cm位ですから、生まれて1歳魚になるまでに大きく成長することがわかります。これは、魚と同じ脊椎動物である人の成長をみればよく理解できます。人は人生の4分の1から5分の1しか過ごしていない中学生や高校生のときによく成長しています。

 そこで、成長の早い満1歳魚の体長を調べてみたところ、資源が多くなったり少なくなったりすると、マイワシの体長も大きくなったり小さくなったりしていることがわかりました。

 マイワシが増え始めた昭和50、51年の満1歳魚は、図9図9 (資源の増減期におけるマイワシの体長の変化)に示したように、体長15cmでした。翌52、53年にかけて体長16、17cmと大きくなりましたが、これから小さくなり始め、昭和58年には体長が12cmまで小さくなりました。そして、これから、年によって大きくなったり小さくなったりしていますが、大体、平成8年にかけて大きなっています。

 マイワシは、資源が大きくなると、餌が少なくなり成長が悪くなっています。これを密度効果といいます。そして、最高の資源量水準になった昭和60年頃にはやや大きくなり、1歳魚で14〜15cmとなり、昭和50年とほぼ同じ大きさにもどりました。

 ところが、資源が減少し始めてくると、再び体長が大きくなってきました。資源が非常に少なくなった平成8年の1歳魚は平均で16〜17cmでした。

 このような傾向は、満2、3歳魚もほぼ同じような傾向を示しています。

 このように、資源の変動に応じてマイワシの大きさが変わってきましたが、産卵親魚の大きさには影響しなかったのでしょうか。

9.産卵親魚の大きさ

 一般に、マイワシの産卵親魚は2歳魚以上といわれています。マイワシが増え続けることができるような良い環境では、1歳魚のときに栄養を十分にとって産卵する個体もみられますが、普通の状態では2歳で産卵します。

 昭和49年から最近までの産卵親魚の年齢を図10図10 (マイワシの産卵親魚の年齢と体長)に示しました。

 産卵親魚の年齢は、マイワシが増え続けている間は2歳以上で変わりませんでしたが、2歳魚の体長は昭和52年を除いて昭和49年から年々小さくなってきました。昭和52年の産卵親魚は体長19cmの2歳魚以上で、前年よりもやや大きくなっていますが、この年から小型化し、昭和54〜56年には16cmの大きさになりました。この大きさは産卵親魚の大きさとしてはこの24年間のなかで最も小さいものでした。

 2歳魚の産卵親魚はこれから再び大きくなり、昭和58年には18cmになりました。マイワシ資源が最高の水準となった昭和61年から平成元年の間は、産卵魚の年齢は3歳魚以上と高齢化し、やや減少し始めた平成2、3年には4歳魚以上だけが産卵親魚となり、ますます高齢化が進みました。

 しかし、資源がさらに減少してくると、年齢は若くなり、平成4、5年には3歳魚以上が、平成6年以降は2歳魚以上となりました。この時の2歳魚の体長は18cmで、資源があまり増えていないときの体長と同じくらい大きさにもどっています。

 このように、産卵親魚の年齢も体長も資源の大きさが変わることによって高くなったり小さくなったりしています。同じ年齢であっても、人の身長が食べ物の少ない戦時中では小さく、戦後の飽食の時代には大きくなることとよく似ているように思えます。

 では、産卵場は変わらなかったのでしょうか。

10.産卵場の南下

 太平洋側に分布するマイワシは紀伊半島の突端にある潮岬で2つのグループに区別されています。潮岬の北側に分布するマイワシを太平洋系群と呼び、その南のものを足摺系群と呼んでいます。

 太平洋系群の産卵場は伊豆諸島周辺海域で、ここでうまれたマイワシはシラスとなって、遠州灘や相模湾にあらわれ、そこで生活します。満1歳なるとやや沖合いに出て北の海に餌を求めて回遊するようになります。資源の多いときには北海道まで北上し、そこで餌をたくさんとり栄養満点の体を作りますが、水が冷たくなってくると、南下して関東近海や熊野灘で越冬します。

 マイワシ資源がまだ十分に増えていないときには伊豆諸島近海で産卵し、潮岬の南に分布していたマイワシも日向灘で産卵していました。

 昭和53年はマイワシがまだ増え始めたばかりでしたが、この年の黒潮は関東の沿岸に最も接近して流れていました。伊豆諸島近海は暖かい海となり、マイワシが産卵するためには最良の海況でした。マイワシは最もよい条件で産卵し、仲間を爆発的に増やしました。翌年も翌々年も黒潮は接岸して流れましたので、マイワシはここで産卵を続け、史上最大の仲間を増やしました。これが昭和55年に生まれたマイワシで、大卓越年級群と呼ばれています。

 マイワシは暖かい海で産卵すると仲間が爆発的に増えることを経験しました。マイワシはもっと仲間を増やそうとして、暖かい海をさがし始めました。もともと、マイワシは黒潮に寄って産卵していますので、黒潮の上流に向かえばさらに暖かい海があるに違いないと考えたようです。

 昭和57年には潮岬の東西でもマイワシの産卵が確認され、翌年には土佐湾や日向灘に、昭和60年には鹿児島の南にある薩南海域に大規模な産卵場ができました。反対に、この年には伊豆諸島近海にはわずかしか産卵がありませんでした。この移動状況を図11図11 (南に移動したマイワシの産卵場)に示しておきます。

 マイワシは、アメリカ西部劇の幌馬車隊ように、西へ西へと移動していきました。西の果てにはユートピアがあると夢見たのでしょう。ところが、西の果ては黒潮が直接産卵場を洗う海ばかりでした。

 生まれたマイワシのシラスは、餌の十分にあるところで成長していきます。そこは、黒潮と沿岸との間の海域で、黒潮内側域と呼ばれています。伊豆諸島近海では、黒潮に寄って産卵しますが、餌の少ない黒潮の中では産卵しません。

 薩南海域の産卵場は、黒潮が通り、餌の少ないところですから、生まれたばかりのシラスは餌がなくたいへんです。おまけに、黒潮に乗って北の海に運ばれるシラスは、餌の多い内側域よりも、餌の少ない黒潮の外側に運ばれました。

 マイワシは子供を増やすことに失敗しました。平成2〜4年に産卵親魚が高齢化したのはこのためだったのです。若い親を育てることができなかったのです。マイワシの幌馬車隊はユートピアを作ることができませんでした。これから、マイワシの資源は減少の一途をたどることになりました。

11.次に増えるのはいつ頃?

 今減り続けているマイワシはいつ頃回復してくるのでしょうか。これを予測することはなかなかむずかしい問題で、神のみぞ知ることになりますが、これでは研究をしている意味がありません。

 東京大学海洋研究所松田裕之博士は数学を駆使して理論的に資源の変動を研究しています。そのなかの一つの理論に、マイワシが減ってくるとカタクチイワシが増え、カタクチイワシが減ってくるとマサバが増え、マサバが減ってくるとマイワシが増えてくる、という理論式を作りました。これを三すくみ理論と呼んでいます。この理論式のなかには、毎年生産される子供の量や、共食い現象、マサバがカタクチイワシを食べる割合、マイワシがカタクチイワシをいじめる割合などを数学的に表わして、将来の予測を計算できるようにまとめられています。

 この式を使って、神奈川県水産総合研究所舩木修研究員はマイワシの回復時期を計算しました。この計算では、マイワシばかりでなく、今漁獲の少ないマサバも資源が多いカタクチイワシもいつ頃回復または少なくなるかを同時に計算しています。

 今、全国的に資源の多いカタクチイワシは平成15年頃から少なくなり、これに代わって、平成20年頃からマサバが増えてくることが予想されました。

 マイワシは、マサバよりも遅く、平成35年頃に回復してくることが予想されました。まだ神奈川県のマイワシは最低の水準に達していませんが、ここ2、3年でほとんどとれなくなりますので、これが回復するにはこれから20年以上かかることになります。この間にマイワシをとる技術やマイワシを販売する取り引き経路、マイワシをおいしく食べさせる専門店などが今のまま残っていることを望むばかりです。

 ただ、この計算では、今のとり方で将来も続くとしていますので、これから小さいものは逃がすとか、産卵期には禁漁にするとか、などの規制が行われると、マイワシの減少の仕方もゆるやかになり、その回復時期も早くなってきます。マイワシ資源をまもるのもこれからが正念場となってくるでしょう。 


神奈川県水産総合研究所 2003
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