神奈川水総研 おさかな情報 さかなのあれこれ

日の出、日没頃に餌をとり、やや暗いところを好む魚

マアジ

三谷 勇・樋田史郎 (2003年7月)

 アジは、イワシやサバと同じく、最も庶民的な魚の一つです。スーパーや魚屋さんでは必ずといってもいいほどアジの干物があり、アジがとれ始めると刺身やたたきに使えるほどの鮮度のよいものが店頭に並びます。

 最近では、当り前のように鮮度のよいアジが店頭に並んでいますが、昭和58年頃の本をみると、「この頃ではアジが少なく、高級魚並みの値段がしている」と紹介しています。昭和50年代後半の頃は、マイワシが全盛期にあった時代です。この魚の資源が多いときには、アジやカタクチイワシ、スルメイカが極端に少なくなることが統計的に確認されています。これらの魚とマイワシは、どちらか一方の魚が多くなると他方の魚が少なくなり、少なかった魚が増え始めると、多かった魚が少なくなります。まるで正反対の性格をもった魚たちのようにみえます。

 現在は、マイワシが非常に少なくなっています。昭和63年に約450万トンもあったマイワシの漁獲量は平成12年にはわずか15万トンにまで減少しています。イワシの最盛期にはイワシ専門店が各地にできましたが、今ではその魚さえ高級魚並みの値段がして、なかなか仕入れることのできな状態となっています。ちょうど、昭和50年代後半に経験したアジの高級魚が現在マイワシで生じています。

 歴史は繰り返すとはいえ、大衆魚のアジやイワシが高級魚になったり、二束三文で売買されたりしていては、自然の成り行き任せで、そこに人間の知恵が働いてないような気がします。もう少しアジやイワシの性格を知っていれば、これらの魚も大事に扱われるのではないでしょうか。

 もし、アジに関するいろいろな知識をもっていれば、店頭のアジを見て、このアジがいったいどこから来たか、いつ頃とれたか、このアジならばおいしいかまずいかまたは脂があるかないか、などの品定めができ、食べるときにも、アジの世界に一歩踏み込んでおいしく食べることができるのではないでしょうか。

 ここでは、近年全盛期にあって今年もたくさんとれると期待されているアジについてお話します。相模湾のアジは昔から築地でもおいしいといわれています。これは相模湾の名産品です。しばらくの間はアジの豊漁期が続きますので、アジのいろいろな知識を知っていただき、アジを楽しく賞味していただきたいと思います。

目次

1.味とアジ

 アジの名前は、この魚を食べると非常においしいことから名付けられたといわれています。味がいい魚の意でアジと呼ぶそうです。この説を唱えたのは、江戸時代前期の享保2(1717)年に日東の爾雅(じが)といわれる「東雅」を書いた新井白石です。この古書は、日本で使われている言葉の語源を解説したもので、中国の漢の時代に発行されたといわれる最古の辞書「爾雅(著者不詳)」にならって書いたといわれています。この「東雅」に、「或人の説にアジとは味也。其の味の美をいうなりといへり」とあります。この記述がアジの語源として広く使用されています。

 アジが味とは、漫才に出てくるような何か語路合わせをしているようですが、元禄8年(1695年)に食通であった小野必大が書いた本朝食鑑には、どの品類よりも優れていると誉めたたえています。後ほどお話ししますが、アジはタイと並んで古来から重用された高級魚だったのです。

 また、この古書では、アジは香美であるとしています。焼くとアジ特有の香ばしい匂いがしてきます。ここで、少し話がとびますが、アジの漢字は鯵です。この文字は 図1図1(真の漢字) に示した漢字の偽字だそうです。本物の漢字はソウと読みますが、この意味は、大漢和辞典(諸橋轍次著)によると、生臭さを表わしているそうです。アジが生臭いとはあまり聞いたことがありませんので、この焼いたときの匂いのことでしょうか。でも、たたきにするときには青じそ、ねぎ、にんにくなど入れますので、舌の利く人には生臭く感じるのかもしれません。

 なぜこの漢字がアジに当てられているかはわかりませんが、平安時代の頃から使われ始めたこの漢字からみると、アジは味のよい魚を意味する名前とは読み取れないような気がします。アジは、この漢字の意味するところからみると、匂いのよい魚の意味とするのは考えすぎでしょうか。

 それでは、多数派の味説に対する対抗馬としてもう一つの説を紹介することにします。この説は、アジが群がって泳ぐ性質をもっていることから、「集まる」の意で名付けたというものです。

 江戸時代前期の元禄8年(1695年)に発行された本朝食鑑(小野必大著)には、アジは喜んで群を成して遊ぶ性質があると評しています。この習性は現在でもよく観察することができます。この群がり集まることをアチといい、このアチが転じてアヂとなり、さらにアジとなったと昭和57年に発行された新釈魚名考(栄川省造著)では述べています。この書では当初前説の美味な魚の意として説明していましたが、後に修正しています。さらに、同書では、鯵の右側の参は「参集する」の意を表わし、魚偏にこれを合成したものとしています。同じように、アジカモという鳥の漢字は参に鳥を合わせた漢字ですが、これは、明治時代の大国語辞典である大言海(明治24年大槻文彦著)によると、群集性の鳥を表わしているそうです。

 アジの地方名は、神奈川県ではアジの幼魚をジンダゴと呼んでいますが、この名は江戸時代にすでに使われていました。安永4(1775)年に発行された物類称呼(越谷吾山著)には、小さきなるものを相州(現神奈川県)にてヂンダンゴ、加賀(現石川県)にてサクザネ、西国にてコビラゴという、とあります。この他に、普通の大きさのアジを紀州(現和歌山県)にてトツカハ、土佐(現高知県)にてトツバコと呼んでいることを記しています。

2.アジの祖先

 アジ亜目の魚の祖先型と考えられている魚は、 図2図2(アジの化石種といわれている古代魚) に示したように、体が著しく側扁し、背鰭の前側の鰭条が著しく高くなっています。この魚は今から7千万年前の白亜紀に地球上に出現しています。サバ亜目の魚の祖先型は今から5千5百万年の始新世の頃に現われていますので、サバよりもアジのほうが早く地球上に生まれ出たようにみえます。

 アジとサバは非常によく似ています。松原喜代松博士によると、アジ科の魚は、感覚管を帯びた完全な眼下骨系をもっていますが、このように完全な眼下骨系をもっている魚はサバ科のなかではサバ属の魚だけで、他の属の魚は退化しつつある魚だそうです。このことからみると、アジ科の魚は、サバ科の魚の眼下骨系が退縮する前のサバ科魚類の祖先を通じて関係があったのではないかと推測されています。

3.アジの仲間

 アジにもいろいろな種類がいます。マアジ、ムロアジ、メアジ、シマアジなどから、学問上ではブリやカンパチなどもアジの仲間にはいりますが、普通、アジといえばマアジをさしています。

 現在の分類では、アジはスズキ目スズキ亜目アジ科に分類されていますが、松原喜代松博士によると、スズキ目アジ亜目アジ科に分類されていました。現在のスズキ亜目にはアジ科を初めとして38科の魚が属していて、アジの仲間の特徴を示すことがむずかしいので、ここではアジ亜目としてその特徴を示すことにします。

 アジ亜目と分類された種類は、アジ科、クロアジモドキ科、ギンカガミ科、シイラ科、ヒイラギ科、スギ科の魚達です。シイラ科の魚は昭和30年に発行された魚類の形態と検索(松原喜代松著)にはアジ亜目に分類されていませんが、昭和54年に発行された一般的な参考書の魚類学(上)(松原喜代松・落合明・岩井保共著)にはアジ亜目に分類されています。

 アジ亜目の魚の特徴は、側線にゼンゴの名で知られている稜鱗を備えていること、口先の骨(前上顎骨)がほとんどのものが前に突き出すことができることなどですが、そのなかでも著しい特徴は、少しむずかしいかもしれませんが、舌を弓状に形作る三つの骨のうち真ん中の角舌骨に角舌窓と呼ばれる孔があることです。この孔があればアジ亜目の魚になります。このほかに、頭蓋骨の背面の正中線上にうすくて高い1縦走骨質隆起線があります。体高が高くなる種類ほどこの隆起線は高くなります。この骨の特徴はわかり憎いので、写真で 図3図3(アジの頭蓋骨中の縦走骨質隆起線) に示しておきます。

 アジの仲間で代表的な種類はマアジの親類ともいえるアジ科の魚達です。この魚達の特徴は、尻鰭の前方に少し離れて2本の棘があることです。ただし、この棘は年老いてくると消えてなくなり、もっと若い魚では鰭膜でつながっています。また、特徴の一つとして、多くの種類では側線に稜鱗がありますが、なかにはブリやヒラマサ、ツムブリ、カンパチ、イケカツオ、コバンアジのように12種類の魚には稜鱗がありません。

 アジ科の魚は、稜鱗があるかないか、その長さはどの位かによってその種類を見分けることができます。マアジやオニアジでは、稜鱗が第2背鰭の起点より前方から始まりますが、オニアジでは側線の前側には稜鱗がなく、マアジは側線の全体にわたって稜鱗があります。ムロアジやマルアジ、メアジ、カイワリ、シマアジなどでは、稜鱗が第2背鰭の起点よりも直下またはその後ろ側から始まっています。

 アジの種類については、すでに江戸時代の古書にもみられます。正徳2年(1712年)に発行された和漢三才図会(寺島良安編)には、「室鯵(むろあじ)は播州(現兵庫県)の室津で多くとれるのでこう名付けられた、東海でも多くとれるが味はもろくてうまくない、下級品である。棘高鯵(いらだかあじ)は、皮が厚くて棘は硬い、最も下級品である。目高鯵(めだかあじ)は、口先が長く両眼の間は広い」などが説明されています。このほかに島鯵(しまあじ)や滅托鯵(めったくあじ)などの名もあります。

 元禄8年(1695年)に発行された本朝食鑑(小野必大著)には、室鯵は体が狭く小さく肉は薄いので、生食に適していない、島鯵は狭小で味もまた良くなく、最も下品なものであると記しています。また、この古書でも、室鯵は播州(現兵庫県)の室津で多くとれるのでムロアジと呼ぶとしていますが、食の体験文化史の著者森浩一同志社大学教授によると、古代から播磨灘がアジの名産地としては出ていないので、この語源に疑問をもっています。17世紀前半に発行された毛吹草(松江重頼著)の播磨の項には、高砂の飯蛸、二見のくも蛸、明石の赤目張などがのっていますが、ムロアジはないそうです。逆に伊予(現愛媛県)にはムロ鯵があるそうです。同じように、明治11(1878)年に刊行された日本地誌提要の播磨の項でも鯛や玉筋魚(イカナゴ)、鰯などがのっていますが、アジがないそうです。本当に播州(現兵庫県)の室津でムロアジが多くとれていたのかどうかを疑問視しています。

 また、マアジのなかには、体色や体つきからみて、クロアジとキアジの2種類がいるといわれています。クロアジは日本の沖合いを広く回遊する群れで、キアジは沿岸の各地にある瀬に定着してあまり広く回遊しない群れです。

 クロアジは、体高が低くて、体長はその4.6倍前後と長い体つきをしています。これに対して、キアジは、体の背の部分が淡い黄褐色で、太って脂肪が多い特徴をもっています。このキアジの中で、20cm以上のものには内臓の表面に花頭条虫科の寄生虫がついています。この寄生虫はクロアジにはいません。

 クロアジの大きく成長したものの中に、口の中が真っ黒なノドクロと呼ばれるマアジがいますが、なぜ、このようなことが起きるかは明らかにされていません。このアジは100〜200m前後の深い海に生息しています。100mよりも深い海にいるアカムツも口のなかが真っ黒でノドクロと呼ばれていますので、深い海で生活していることがなにか関係しているのかもしれません。

 それでは、アジが日本の歴史のなかでどのように扱われてきたかをみてみましょう。

4.アジの食品史

(1)太古の時代

 現在の相模湾では、アジは名産品の一つとして知られていますが、今から2千年前以上の原始時代には、当時の人々はアジを食べていたのでしょうか。

 原始時代の相模湾は、今よりも海面が上昇していたために、現在の海岸線よりも内陸部にありました。東京湾側で見れば、海面が3m以上も上昇した縄文海進の時には、群馬県藤岡市付近まで海岸線が奥深く入り込んでいたといいます。

 相模湾でもこの影響を受けて藤沢市から平塚市にかけての海岸線が現在よりも内陸にありました。この海岸線に沿って、貝塚が点在しています。

 アジの骨はこれらの貝塚から出土していますので、原始時代の人々もアジを食べていたことがわかります。横須賀市鴨居にある中台貝塚からはアジ科の魚の骨が出土し、その南側にある吉井貝塚からはマアジの骨が出土しています。ところが、中台貝塚より北側にある野島貝塚や夏島貝塚からはアジの骨が出土していないようですので、原始時代もアジは観音崎以北の東京内湾には入り込まなかったようです。

 東京湾口にある三浦市松輪間口東洞穴遺跡からはマアジやムロアジの骨が、相模湾の東側にある三浦市諸磯の諸磯貝塚からはマアジの骨が出土しています。相模湾奥部にある藤沢市善行立石にある立石遺跡からはアジ科の魚が、高座群寒川町の岡田遺跡からはアジ類の骨が出土していますので、アジは神奈川県沿岸の広い範囲で食用にされていたことがわかります。

(2)万葉の時代

 万葉の時代の食品は、諸国の地誌や生活誌を記した風土記や藤原京跡、平城京跡、長屋王邸宅跡から出土した木簡から知ることができます。

 天平5(733)年2月30日に成立した出雲風土記には、阿遅須枳高日子命(あじすきたかひこ)という神の名がありますが、食の体験文化史の著者森浩一同志社大学教授によると、阿遅(アジ)は8世紀頃のアジの表記だそうです。出雲風土記には、アジがとれる土地は示されていませんが、神にアジの名を付けるくらいですから、きっとアジを食用にしていたのでしょう。

 694年に持統天皇によって奈良県飛鳥に遷都された藤原京跡から出土した木簡の一つに、「石井前分贄阿治」とあります。これは摂津国(現兵庫県)武庫郡石井郷から前分としてアジをだした送り状ですが、前分とは、森教授によると、税の収納にたずさわる下級役人にわたす袖の下だそうです。いつの世にも賄賂をもらう役人が幅をきかせていたようです。

 和銅3(710)年3月に開都が宣言された平城京跡から出土した木簡には、「紀伊国海部郡浜中郷大原里御贄 安遅魚一斗」とあります。これは、現在の和歌山県海草郡下津町小原付近の里からアジを貢納した送り状だそうです。また、他の木簡では、「山田郡贄安遅四口」とあります。山田郡は現香川県高松市で海に面した土地だそうです。ここからアジが送られてきています。

 平城京の閣僚の首班として力量をふるった天武天皇の孫長屋王の邸宅跡から出土した木簡には、「住吉郡交易進贄 塩染阿遅二百廿之中 大阿遅廿口 小阿遅二百口」とあります。これは、交易で入手した大アジと小アジに塩をきかせて、現大阪府住吉から送ったということを示す送り状ですが、塩染阿遅とは、アジを開いて塩をすりこんだものだそうです。

(3)貴族の時代

 奈良時代から贄として貢納されていたアジは、この時代には2つの法律によって集められていました。その一つは諸国の特産物を集めていた宮内省の規定であり、もう一つは天皇家の食事を担当した内膳司が定めた規定でしたが、いずれの法律でも、アジは和泉国からタイともに貢納されていました。内膳司が定めた規定は、延喜11(911)年に六箇国日次御贄の制という法律によって義務化されたもので、六箇国というのは、山城(現京都府)、大和(現奈良県)、河内(現大阪府)、和泉(現大阪府)、摂津(現兵庫県)、近江(現滋賀県)のことで、これらの国から集める特産物や送る日などが決められていました。アジは、和泉国からタイやセイゴと共に4、10、16、22、28日に送られ、摂津国からは鯉、鮒(ふな)、スズキ、干ダイなどと共に5、11、17、23、29日に送られてきています。他の4ヶ国は海に面していないため、鯉、鮒、鮎、スズキなどが和泉・摂津国の送付日以外の日に送られています。

 このように、この時代のアジは神饌魚として重用され、宮廷の行事のときに出される饗膳などにも用いられていましたが、承平4年(934年)に発行された和名類聚抄(源順編)にはアジの記述がありますので、庶民の間でも食用にされていたようです。ちなみに、アジの漢字「鯵」はこの時代から使われ始めています。

(4)武家の時代

 源頼朝が鎌倉に幕府を開いた鎌倉時代から豊臣秀吉が天下を平定した安土桃山時代は武家が台頭した時代でした。この時代には、平安時代には重用されていたアジは、この時代の大事な行事食にはあまり使われなくなってきています。承元3(1209)年の任大臣大饗には、鯉、鮒、鯛、鮎などは使われていますが、アジの名がなく、元仁元(1224)年の大饗にも干鮑や鯉、鱸、鯛の名がりますが、アジは使われなかったようです。

 それでも、一般庶民の間では、アジは日常の食品として使用されていました。この時代の日常の食品を比較的よく書き記している庭訓往来(僧玄恵作)には、カツオやマグロ、サバなどと共にアジもあげられています。平安時代と比べると種類数も一段と増えているそうですが、保存食も増えてきます。さらに、発酵食品も開発され、アジの鮨、マグロの黒作り、蟹味噌、このわたなどが作られるようになってきました。

 この時代になると、アジは生産地の漁村ばかりでなく、周辺の小さな漁村からも魚を集め魚市場で荷揚げされていました。元亭2(1322)年には備前(現岡山県)西大寺に魚座(魚市場)があり、「兵庫北関入船納帳」によると、アジ、イワシ、タイ、ナマコ、ワカメなどが生産地以外の津々浦々の村から集められ、アジは嶋(小豆島か)平山に船籍をもつ船が魚座に荷揚げしていました。

 室町時代になると、食膳にのぼる魚介類の種類数はさらに多くなり、それと共に干物の魚類数も増え、タイ、サケ、アユ、イワシ、サバなどは生乾し、開き干し、目刺しなどに加工されるようになってきます。開き干しの名前はこの時代になって始めて使われるようになりました。

 安土桃山時代になってもアジは高貴な人々の饗膳に出されていないようですが、昭和61(1986)年大阪市東区道修町にあった秀吉の時代の魚市場跡から魚の名前の書いた木札が大量に発掘されました。一番多い名前がムロ(室鯵)で、次にサハ(鯖)、三番目にアチまたはアシ(鯵)、ヒアシ(干鯵)だそうです。この時代にもアジは大量に水揚げされていたことがわかりますが、時の関白秀吉が天皇をもてなしたり、大名にもてなされたりした饗膳にはアジの名前がありません。アジは一般庶民の食品として多く利用されていたようです。

(5)泰平の江戸時代

 江戸時代前期に一般向けの料理本の先駆けとして寛永20(1643)年に出版された料理物語(作者不詳)には、「アジ、汁、おきなます、酢いり」などとあり、ほぼ同時代に刊行された古今料理集(作者不詳)には、「あじ、焼物(第一なり)、吸い物、汁、すし、酢いり」などアジを使う料理が記されています。このなかの鮨については、享保15(1730)年に発行された料理網目調味抄には、アジはタイ、スズキ、サバ、カツオなどと共にこけら鮨にして食べるとあります。当時の鮨は、現在のようなにぎり寿司ではなく、こけら鮨は箱ずしの類で、材料の魚の身を薄く切ってのせるとこけら(木屑)のように見えることから名付けられています。

 元禄8年(1695年)に発行された本朝食鑑(小野必大著)には、「アジは駿州・豆州(現静岡県)、房州・総州(現千葉県)でとれるものが最も美味である、晩春から晩秋にかけて多くとれ、とりわけ長さ6、7寸(約18〜21cm)のもので、丸く太っているものは味わいがはなはだ香美で、あぶって軽く焼くとおいしい、このほかに、酢にしても、煮物にしても、膾とするもよい、漁村では常にとって干し魚にし、冬や春の頃はやせて味がよくないので、干物にしている」とあります。この時代前期には、アジは一般庶民に鮮魚ばかりでなく、干物にしても利用されていたことがわかります。

 では、将軍や大名はアジを食べなかったのでしょうか。

 将軍の食膳にあげてはならない魚は、「江戸のファーストフード」の著者大久保洋子文教大学助教授によると、コノシロ、サンマ、イワシ、マグロ、サメ、フグ、アイナメ、ムツ、ボラ、ナマズ、ドジョウ、フナと干物類です。アジはこのなかにはありませんが、アジを特に多く食べていたようでもありません。

 大名の宴会に使われた魚介類については、麻布台1丁目にある出羽米沢藩上杉家と豊後臼杵藩稲葉家の屋敷跡からマダイやカレイ、イワシ、サケ、カツオ、スズキ、マサバ、コチ、メバル、アラ、マグロ、クロダイなどと共にアジも出土しています。この屋敷では盛んに宴会が行われていたようで、将軍も食べないイワシや下魚として嫌われていたマグロも宴会に出されていました。

 江戸後期の天保2年(1831年)に発行された魚鑑(武井周作著)には、江戸前期の本朝食鑑とほぼ同じ内容でアジが紹介されていますが、ここでも「アジは上下とも賞味する」とありますので、江戸の後期になっても、アジは将軍から庶民まで広く食べられていたようです。

 このように大量のアジを消費する江戸では、日本橋にあった魚市場は各地から持ち込まれる魚で賑わっていた光景が、天保3(1832)年に発行された江戸繁昌記(寺門静軒著)で紹介されています。これによると、アジは夕方に水揚げされていたとありますので、東京湾などの近郊の海で漁獲されたアジがその日のうちに鮮度よく水揚げされていたことがうかがえます。このアジは生売りばかりでなく、鮨に加工されて、棒手振りと呼ばれる鮨売りの行商人によって、「鮨や、鯵のすウ。こはだのすウ」といなせ声で売り歩いていたそうです。

(6)文明開化の時代

 明治時代の漁業界は混乱していました。この混乱期の明治7(1874)年には、神奈川県では、アジはコチに続いて第2位の生産額をあげていました。トン数に換算すると、約446トン位で、現在の水準からみると、約1/2位の漁獲水準に当たります。漁獲技術の進んでいなかった当時としては非常に多くのアジを漁獲していたことになります。ちなみに、第3位がスズキ、4位タイ、5位サメ、6位イワシと続きます。

 この混乱期は、明治20年頃には改善され、江戸時代に合意された協約が再締結されたり、漁業者団体の組織が再編されるなどして、徐々に落ち着きを取り戻してきました。この頃から漁業統計が作られるようになってきましたので、この時代のアジの年漁獲量を 図4図4(明治・大正の神奈川におけるアジの漁獲量の年推移) に示しました。

 混乱がほぼおさまった明治20年頃の神奈川県では、アジの漁獲量はほぼ明治7年と同程度の漁獲をあげています。この頃の古文書によると、三浦半島沿岸のアジは釣と棒け(棒受網)によって漁獲されています。アジ釣は縄20尋(30m)釣針2本、30匁(約113g)の鉛錘に真鍮の2匁(7.5g)の針金2尺8寸(約84cm)を二つ折りにしたもの、現在の天秤釣の道具でした。この釣りは周年行われていましたが、アジ棒けは5月から8月まで行われたと記されています。

 また、この年の東京湾側にある横須賀市走水ではアジが9万尾漁獲されています。ここでは、漁獲物は1尾ずつ売買されていたらしく、アジ1尾の値段が1銭とあります。1銭は1円の百分の一ですから、現在1尾100円のアジは明治20年の1万倍の値段になっています。同じく、タイが37銭、ブリが40銭、アイナメが30銭、イカが2銭、サバが1.5銭、コノシロが0.16銭、イワシが0.07銭でしたので、アジは大衆魚のなかでは高く販売されています。

 明治20年におけるアジの漁獲量は、神奈川県沿岸のなかでは三浦郡(東京湾側の横須賀市田浦から相模湾東部の逗子市小坪までの区域)が最も多く、全体の約4割を占めています。他の地区では東京湾の奥部から相模湾の一帯までくまなくアジが漁獲されていますが、その漁獲量は三浦郡の約3割程度の水揚げしかありません。このことからみると、三浦郡にはアジ釣りの漁師がいかに多くいたかがわかります。

 ところが、これから8年後の明治28年には、この年もまだ水揚げ金額で示されていますが、足柄下郡(小田原市前川から湯河原市吉浜までの区域)の方が三浦郡の約20倍漁獲しています。この漁獲量は明治時代のなかで最も高いものでしたが、これは相模湾西部でアジがたくさんとれたためでしょう。この地区には、江戸時代の文化元(1804)年に開発された根子才網(ネコゼアミ)という定置網の原型ともいえる定置網が張り立てられています( 図5図5(根子才網の見取り図) 参照)。この網は、文政7(1824)年には真鶴地区に、天保5(1834)年には門川村に敷設され、時代ともに北上して、明治9(1876)年には石橋村に敷設されて、この地区には10漁場の定置網漁場ができています。これらの定置網がアジの漁獲に貢献したのは疑うべきもありません。明治32(1899)年には足柄下郡のアジ漁獲量は神奈川県全体の96%を占め、明治38(1905)年までは約50%近くを占めていました。小田原方面でアジが多く漁獲されるようになったのは、どうやら明治28年頃からのようですが、明治40年(1907)には足柄下郡の漁獲が100トン以下となり、150トン前後と安定して漁獲していた三浦郡のほうが再び多くなっています。

 大正時代に入ると、明治政府が強力に押し進めてきた漁船の動力化や漁具資材の改良(明治29年86%の麻網から綿網へ)が実を結び始め、他の魚と同じようにアジの漁獲も多くなってきました。大正6(1917)年には明治・大正時代を通じて最高の2026トンも漁獲しています。大正11(1922)年には関東大震災が起こり、アジ釣りの餌であったシラスが不足し、大正12年10月22日に組合長会議で餌シラスを共同購入をして、この困難を乗り切ることを決定しています。大正13(1924)年の神奈川県漁村調査書によると、アジ釣りはイカ釣り(1495隻)、サバ釣り(824隻)、ウズワ釣り(659隻)に次いで漁船隻数が多く、651隻の漁船が稼働していました。アジ釣りによる生産金額は、神奈川県総生産額の約4%を占める主要な漁業となっていました。

(7)戦争と平和の時代

 昭和前期は世界大戦に突入していく時代です。昭和2(1927)年の第1次山東出兵から昭和6(1931)年の満州事変、昭和12(1937)年の日華事変、昭和14(1939)年のノモンハン事件と日本は国際的に孤立化の道を歩み、昭和16(1941)年に太平洋戦争へ突入していきます。漁業の担い手である若い漁業者は戦争に徴兵され、大きな漁船は徴用され、神奈川県全体の総漁獲量は太平洋戦争が本格化していくに従い大きく減少していきました。昭和16年以前には3万トンあった魚類の総漁獲量は、昭和18(1943)年には約1.7万トンと半減し、終戦時の昭和20(1945)年には約1.4万トンにまで低下しました。アジの漁獲量も例外ではありませんでした。昭和17年のアジ漁獲量が1973トンであったものが、昭和20年には1084トンと半減しています。戦争に伴う労働力の不足は簡単な道具で小型の漁船で行うアジ釣りにまで影響を与えました。

 終戦後、神奈川県全体の総漁獲量は終戦の翌年から急激に増加し始め、漁業の素早い立ち直りを感じさせましたが、アジの漁獲量は終戦後もさらに2年間減少していきました。終戦直後には、県下全域で釣や延縄が行われ、特に、三浦半島地区ではサバ釣、イカ釣が盛んに行われました。昭和22(1947)年におけるサバ・アジ釣は573隻、イカ釣は638隻ですが、大正13年(1924)年と比べると、サバ・アジ・イカ釣とも約40%の漁船しか操業していないことになります。

 この釣漁業に対して、大量に漁獲する揚繰網漁業は、機械揚繰網が21ヶ統、手揚繰網が38ヶ統操業し、相模湾の瀬の海では夜焚網としてアジの揚繰網が1ヶ統活躍していました。ブリ網は8ヶ統、春網7ヶ統、秋網が12ヶ統、猪口網55ヶ統、桝網13ヶ統が張り立てられ、鎌倉・江の島周辺では打瀬網が312ヶ統も操業しています。これらの漁業はほぼ戦前並みまたはそれ以上の隻数となっています。釣漁業の減少は、労働力が給料の良い大規模漁業の方にとられ、アジ釣りなどの小職にはあまり従事しなかったためのようです。

 揚繰網や定置網の活躍によって、アジの漁獲量は、 図6図6(昭和・平成の神奈川におけるアジの漁獲量の年推移) に示したように、昭和24(1949)年頃から急激に増加し、昭和28(1953)年には8462トン、昭和32(1957)年には9960トンと史上最大の漁獲となりました。この漁獲量は、統計が始まった明治20(1887)年の漁獲量の22倍にも当たるものでした。終戦後わずか12年で史上最大の漁獲をあげた漁師魂は感嘆に値します。

 その後、アジの漁獲量は、昭和30年代では高い漁獲を維持していましたが、昭和40年代には漁獲が減少し、昭和50(1975)年にはわずか877トンにまで低下してしまいました。これは、アジを多くとり過ぎたためではなく、地球の環境が寒くなったためによるものです。地球は40年周期くらいで暖かくなったり寒くなったりしていますので、これに応じて、寒さに強いマイワシが増え、暖かくなるとアジやカタクチイワシ、スルメイカが増えてきます。これを魚種交替と呼びますが、マイワシが最大の漁獲量をあげた昭和60年代には、アジは最低の漁獲となっていました。マイワシが減り始めた平成時代に入ると、アジが増え始め、現在全盛の時代を迎えています。

5.アジの一生

(1)産卵

 マアジは満2歳くらい(尾叉長約20cm)になると、ほとんど1年中日本のどこかで産卵をしているといってもいいほど産卵しています。満2歳がアジの成熟する最小の年齢ですが、資源が減少してくると、アジは早熟するようになります。豊漁期の昭和37(1962)年から昭和41(1966)年にかけてアジの漁獲量は急激に減少しましたが、この時のアジの成熟具合は、東シナ海中部群の2歳魚では7.1%から24.5%に、3歳魚では21.7%から57.6%までに上昇しました。同じように、九州北部群と呼ばれるアジでも2歳魚で産卵した個体は12.3%から52.1%に増え、東シナ海南部群の2歳魚でも28.4%から80.4%に増大しました。2歳魚で成熟する個体がこのように多くなってきていますので、小さいものが早く成熟していることを示しています。このような現象はマイワシやカタクチイワシでもすでに知られています。

 天然のアジの産卵期は1月から11月の長い期間におよんでいます。一般には、南の暖かい海では早く、順次北の海で産卵が移っていきます。概略、東シナ海や西日本では1〜5月、東日本では5〜7月ですが、海域毎の産卵期は、東シナ海の南側に生息する南部群では1月中旬から4月中旬に産卵し、その盛期は1〜2月といわれています。南部群の北側に生息する中部群は1月上旬から7月下旬の長きにわたり、その最盛期は2〜3月です。中部群のさらに北側から九州の沿岸に分布する九州北部群は2月中旬から8月中旬に産卵し、その盛期は4〜5月です。東シナ海のアジの産卵最盛期をみると、産卵は南側で早く、北側で遅く始まっていることがわかります。さらに北側の海域では、太平洋側では高知沖で3〜4月、瀬戸内海や伊豆諸島近海では5〜7月、日本海側では日本海西部で4〜6月、その北部で6〜7月です。

 産卵場は東北海域から南の広い海域にわたっていますが、この中でも、産卵親魚の分布状態や産卵期の長さからみると、九州北部から東シナ海が最も重要な産卵場です。

 養殖したアジは餌を十分に得ることができますので、満1歳前後(尾叉長約15cm)で初めて成熟します。この養殖アジは3月下旬から6月中旬にかけて成熟し、水槽内で産卵します。産卵は午後10時頃から始まり翌日の午前7〜8時頃まで続きます。ときには午後2時頃まで産卵することがあります。産卵は午前1時から3時頃までが最も盛んに行われます。

 アジの卵は直径0.9mm前後の球形で、分離して浮性する性質があります。表層を浮遊するあいだに孵化しますが、水温18℃では約43時間で孵化します。この時間は水温が高くなると短くなり、水温24℃では27時間かかりますが、27℃以上の水温では大部分のものが奇形となって生まれてきます。水温15℃では卵の発生が停止しますので、孵化の適温範囲は18〜24℃と考えられています。

(2)稚仔魚期

 生まれたアジの卵は黒潮や対馬暖流に乗って北の海に運ばれていきます。この途中でふ化し、仔魚となり成長していきます。孵化直後の仔魚の大きさは全長2.4mmです。 図7図7(アジの仔魚と成魚) に示したような仔魚が浮遊生活をしながら成長し、20mm前後の仔魚なると、流れ藻について生活する集団もでてきます。流れ藻は仔魚のゆりかごとして、隠れ家として利用されています。この流れ藻がないと大きな魚の餌となってしまいますが、流れ藻の代わりにユウレイクラゲやミズクラゲなどの大きなクラゲを利用することもあります。アジ類とクラゲの共生関係は稚魚時代にだけ生じ、ときには2〜3ヶ月間以上も続くことがあります。イボダイではクラゲを食べるために共生していますが、アジ類は大きな魚や鳥などから身を守る隠れ家としてクラゲと共生しています。

 孵化後30〜45日位で全長30mm位の稚魚となり、体形が親によく似てきます。さらに、46〜60日位で全長55mm前後となると、胸鰭や尾鰭が完全にでき上がり、運動能力は一段と高まり、魚食性が強くなります。

 東シナ海に2〜3月に出現した5cm前後のものは、1日数マイル程度の速さで北に運ばれ、4〜6月頃には伊豆諸島近海に達します。さらに、この稚魚は北の海に運ばれ、東北海域には4〜8月に達し、8〜9月には北海道の釧路沖にまで運ばれます。

 北上中の稚魚は、全長5mm位では小さなプランクトンの子供を食べていますが、20mm以上になるとカタクチイワシのシラスやハゼ類の幼生を食べて過ごします。

 体長40〜50mmになる初夏から秋口にかけて、稚魚は流れ藻を離れて各地の沿岸に現われるようになります。この頃のものは、かなり水の汚い沿岸や水の甘い港の中まで入り込みます。

 稚仔魚期のマアジは表層または表層近くを遊泳していますが、群れを作るようになると、中層に移り、さらに成長すると、底層に移るようになります。東シナ海ではその水深は200m深であることが魚群探知機などの調査から推定されています。

(3)未成魚・成魚

 アジの成長状態は、月日と共に大きくなっていくアジを順番に並べてその体長の変化から求めたものや、鱗や耳石、脊椎骨にできる輪紋を数えて推定されていますが、産卵期がほぼ1年中であること、群れの構造が複雑であることなどから、研究者によって成長が多少異なっています。たとえば、西日本のマアジの主群は、4〜6月に5cm、年末に12〜15cm、翌年5月に15〜18cm、その年末には20〜23cmとなりますが、これとは別に、6月に12〜14cm、年末に17〜19cm、翌年の6〜7月に21〜22cmとなるものがあります。この群れは主群よりも約半年位遅れて秋に生まれた群れであると考えられています。

 満1歳魚の大きさは、尾叉長で太平洋中部・南部・東シナ海のものでは18cm前後、日本海南部海域のものでは15〜18cmとなります。養殖したマアジでは、水温18〜26℃で成長がよくなり、冬には成長が止まりますが、その満1歳の体長は尾叉長17.4cmでした。2歳魚以上の体長は、2歳魚で26cm、3歳魚で30cm、4歳魚で32cm、5歳魚で34cmになります。

 釣人の記録では、神奈川県横須賀市走水で最大 60数cmの大アジ図9(横須賀市走水沖の巨大アジ) が釣れた記録があるそうですが、研究者が成魚の成長を扱うときは、尾鰭の先端の破損が多い魚では、吻端から尾が二股にわかれた最も内側までの長さ(尾叉長)をはかり、これを体長としています。最大を全長とすると、走水のものは尾叉長で50数cmのマアジとなりますが、長年アジやブリの研究をしてきた三谷文夫博士は、50cm台のアジをみたことがないといわれていますので、走水の大アジは非常にまれな釣果といえるでしょう。現在求められている成長式から推定すると、25歳以上になっているはずですが、走水のものを後日調べたところ鱗による年齢査定では4歳魚でしたので、マアジの生息する環境状態によっては異常に成長のよい群れができるようです。もちろん、このマアジが本当にマアジであるかどうかをDNA鑑定をしたところ、正真正銘のマアジでした。

 1歳魚以上になると、マアジは、一部のものはそのまま瀬について生活するものもありますが、大部分のものは沖合いで生活するようになります。沖合いのマアジは、春にはマイワシやマサバよりもやや遅れて北の海に向かって回遊し、水温が下がってくる10〜11月には南下回遊を始めます。水温が下降すると、マアジ魚群は深く沈下するようになり、瀬付きの状態になります。日本海のマアジは山陰から東シナ海で越冬しますが、太平洋では相模湾で1月に1歳魚以上のマアジが時折漁獲されていますので、イワシやサバと同じように伊豆諸島以南の海域で越冬していると推測されます。そして、再び春が来ると、北の海に向かって回遊を始めます。

 相模湾ではほぼ周年マアジがとれますが、定置網などでたくさんとれるのは春と秋です。春には体長20cm前後のものと体長5〜10cm位のものがとれます。これらのマアジは餌を求めて北上してきた大きいアジ、黒潮上流域の九州南部や東シナ海で生まれたまだ小さいアジですが、中央水産研究所の西田宏氏によると、春の大きなマアジのなかに相模湾で産卵するのではないかと思われるマアジが混じっていたことが報告されています。昔から伊豆近海で産卵している群れがあるといわれてきましたが、相模湾で5月中旬から6月中旬かけて成熟したアジが発見されたのは初めてです。

6.光に対する反応

 マアジの1日の行動は夜明けと共に始まります。マアジは毎日餌をとらなければなりません。キンメダイなどのように餌を何日もかけてゆっくりと消化させるようなことはしていないので、その日に食べたものは夜には消化されて胃の中はからっぽになっています。

 マアジが一番活発に食べる時刻は明け方と日没後しばらくの間で、午前8時から午後4時頃、夜明け前の8〜10時間は絶食状態にあります。ただし、夜間に明りをつけると、明りに向かう性質をもつマアジは再び餌をとるようになります。

 大きなマアジの餌は動物プランクトンですが、小魚を食べる、いわゆる魚食性も強く、カタクチイワシのシラスや成魚、オキアミ、キビナゴ、ウルメイワシ、イカ類、ゴカイなどの多毛類などを食べています。

 よくマアジを釣るときにタナを釣れといわれますが、これはなぜでしょうか。

 マアジはよく明りに集まる習性をもっていますが、明るければよいというわけではありません。最も適当な強さの明るさでなければ、その明りを避けて近づこうとはしません。

 明治時代の三崎(現神奈川県三浦市三崎)では、古老の言い伝えによると、漁場が高い根に近ければアジは比較的上にいて、シタドコ(海底)が平らならばアジは深くなるといい、潮が速ければ上に、潮がよどめばやや深くなるといわれています。

 これは、一つには明りの強さが考えられます。周りに根があったり、早い潮ではいろいろなものが舞い上がって周りが暗くなるので、アジが浮き上がり、根のないところや流れのないところでは周りが明るくなるので、アジは海底近くに沈むことを示しています。

 アジや他の魚が本当に好きな明るさをもっているかどうかを確かめるために、水中集魚灯や船上の集魚灯を使ってどのくらいの明るさのところに魚が集まるかを調べた研究があります。これによると、確かに、アジはある明るさのところに集まってきています。イワシなどよりも狭い範囲の明るさに集まってきています。これをある範囲の明るさを好んで集まってきているという説と、集まってくる明るさは固定的なものではなく、その時々の環境条件によって好きな明るさが変わるとする説がありますが、いずれにしてもアジはそのときに最もよい明るさのところに集まってきています。

 表層から海底までの明るさは大きく変わります。アジは中層から海底近くにピラミッド型の分布していますから、その分布している深さがマアジにとって最もよい明るさになります。アジを釣ろうとすれば、まず、アジが好む明るさのところに釣針を入れなければなりません。日の出や日没の明るさは時々刻々変わり、日中でも潮の流れ方や天気次第で明るさが変わってきますので、それに応じてアジの深さは変わってくることになります。マアジを釣るためには、タナを知らなければならないのはこのような理由によるのです。

7.眼と鼻

 魚は水中に住んでいます。水の中はいろいろなものが浮遊して濁っていたり、光が深いところまで届かない環境です。このような環境の中では遠くを見ることができませんから、魚の眼はごく近いところだけを見ることができるような仕組みになっています。

 魚の眼は、一般に、頭の両側にありますので、片側の眼で広い範囲を見ることができます。マスでは片側の眼で約160度の視野を見ることができます。人間の両眼では約150度位しか見えませんので、魚のほうが広い範囲を見ることができることになります。

 見る物との距離は両側の眼を使って行いますが、魚のこの視野は狭く20〜30度しかありません。人間ではこの視野が120度位ですから、魚のほうが非常に狭いことになります。魚は片側で広い範囲を見ていて、注意が引くものがあると、体をその方に向けて、両側の眼を使って、そのものとの距離を測っています。

 魚の視力は0.5から0.08くらいですから、人間の眼では近眼と判定されそうですが、魚の眼は近眼ではありません。マアジの視力は体長13cmのもので0.12ですから、沿岸の魚の中では平均的な視力をもっています。また、眼の網膜には物がよく見える部位がありますが、この位置が網膜の下側にありますので、マアジは、イワシなどの餌を下から見て襲う行動をとると考えられています。

 サバの視力は体長35cmのもので0.17です。ほぼマアジと同じ程度の視力ですが、よく見える方向はやや上向きの前方です。サバはやや上向きの正面にいる小魚を見て飛びつくと考えられています。

 サバと同じように表層を泳ぐカツオやマグロは魚の中では視力がよく、カツオでは0.43、メバチで0.44ですが、バショウカジキはさらによく0.53の視力をもっています。

 魚の鼻は人と同じように口と眼の間にあります。人の鼻は左右に1個の穴ですが、多くの魚は海水の取り入れ口としての穴(前鼻孔という)とそれを吐き出す後ろの穴(後鼻孔という)が左右にあります。この鼻孔の底に匂いを感じ取る嗅板という器官があります。嗅板の上には匂いを感じて脳に送る感覚上皮という細胞があります。これらの形や数は魚の種類によって大きく変わります。一般に、嗅板の数が多くて、感覚上皮が全面に広く密集して分布しているほうが匂いをよく感じ取るとされています。

 アジの嗅板はブリやムツ、ボラとおなじような形をしていますが、嗅板の数は、マアジで42個、ブリで40個、ムツで33個、ボラで32個もっています。ところが、感覚上皮の形では、ムツとボラの感覚上皮が全面に分布しているのに対して、マアジやブリでは感覚上皮の分布が少なくなっています。

 さらに、感覚上皮の上には小さな毛がついていますが、この毛が多いほうが匂いをよく感じ取るといわれています。この毛の多さは、この4種のなかではムツが一番多く、次いでマアジとボラで、ブリが最も少なくなっています。マサバは、嗅板の数が25個と少ないのですが、感覚上皮の毛がマアジよりも多いので、どちらが匂いに敏感であるかは判定することはできません。ちなみに、鋭い嗅覚をもつ犬と同程度の嗅覚をもつといわれるウナギの嗅板数は108個で、その感覚上皮が全面に分布し、その毛も非常に密集しています。これらのことから、マアジの嗅覚はそれほど敏感なものではないようにみえます。

 魚の脳の発達状況から餌のとり方を分類した研究によると、マアジは基本的には眼で餌をさがしていますが、匂いの感覚や音を聞く側線感覚も発達していますので、これらも使って餌をさがしていると判断されています。マイワシやマサバでは脳の嗅覚を受け持つ部分があまり発達していないので、餌をさがす行動は主に眼と側線によって行われています。

8.現在は豊漁期

 最近では、マアジ釣りが盛んになってきましたが、マアジの資源は今どのような状態にあるのでしょうか。マアジの資源状態を漁業者が漁獲した生産量でみてみましょう。

 マアジは、昭和の始めから戦後の昭和26年頃までは年間2〜7万トンと、安定した漁獲量でしたが、昭和27年頃に魚群探知機が開発されてから急激に漁獲が増加しました。日本の漁業生産量のなかでは、アジはサンマ、カタクチイワシに次いで第3位に位置を占めるようになり、昭和35〜40年には年間50万トン前後のアジを漁獲しました。その後、マサバが増加し始めるのと反対に、アジの漁獲量は減少し、昭和50年には25万トンとなり、昭和55年にはわずか5万トンにまで落ち込みました。昭和50年頃からはマイワシの資源が増加し始め、昭和55年には爆発したかのようにマイワシが増えました。この頃マサバ資源は最高の水準にありました。この3種は、 図8図8(日本沿岸における浮魚類の魚種交替) に示したように、アジが多いときには他の2種が少なく、サバが増え始めるとそれまで多かったアジが少なくなり、サバ資源が頂点にいるときにはアジが一番少なくなりマイワシが増え始めています。まるで、この3種が交替で増えたり減ったりしているようにみえます。この現象を魚種交替と呼んでいます。

 現在は、マサバが最も少なく、マイワシも減少している状態ですから、マアジは最も多い時代に入っています。これがどのくらい続くかを魚種交替という理論を用いて計算すると、少なくても次のマサバが増えてくる平成22年頃まではマアジの天下が続くと予想されます。


神奈川県水産総合研究所 2003
suisoken.411@pref.kanagawa.jp