神奈川水総研 おさかな情報 さかなのあれこれ

獰猛な食性で稚魚を襲い、小田原名産の干物となる魚、

カマス

三谷 勇・樋田史郎 (2003年7月)

 神奈川県沿岸で漁獲される魚の中で、漁獲量も多く、名産品として重要な魚であるのに、それほど研究されていない魚がいます。その魚はどこで産卵しているのか、生まれ出た仔稚魚はどこで生活し、何を食べて、どのような回遊をして一生を過ごしているのか、などが全くわからない未知の魚です。

 その魚はカマスです。

 カマスの仲間には人を襲うといわれるオニカマスなどがいますが、沿岸で漁獲されるカマスはアカカマスやヤマトカマスなどの小型の魚です。これらは古くから大事な食用魚として利用されてきていますが、不思議なことに、ほとんど研究の対象になっていなかった魚です。

 これはなぜでしょう。

 この理由の一つとして、ごく近年まで魚の研究は国の指導のもとに行われていましたので、全国的に多く漁獲されている魚が優先的に研究の対象とされ、ある特定の地域だけに多い魚は後回しにされる傾向にありました。このような魚は県独自の予算で研究を行うことになりますが、県の予算が悪化してきた最近では新たな研究対象を作ることはできない状態になっています。

 神奈川県沿岸のカマスも、このような情勢に振り回されてほとんど研究されていませんでしたので、ここで数少ない研究報告をもとにして、神奈川県沿岸に来遊するカマスの特徴をまとめてみたいと思います。

ヤマトカマスの歯

目次

1. 叺(かます)の魚

 魚の名前は、体全体または一部の形や色彩、行動や生活の仕方などの特徴によって名付けられています。カマスの名前は、この魚の体全体の形から名付けられています。この魚は、体が細長く、円筒状で、その頭部は長く、口が大きく裂けている特徴をもっています。

 この体つきに似たものとして、2つのものがあげられています。つまり、カマスの語源には二つの説があることになります。

 その一つには藁(わら)で作る叺(かます)に似ているといわれています。むしろを二つ折りにして袋状にし、そこに農作物を入れる、あのかますです。この説が現在では最も一般的に支持されています。養老4(720)年に成立した日本書紀(舎人親王・太安万侶ら編)には嚢(ふくろ)のことをカマスと読ませていますので、この嚢の名がこの魚の名前になったのではないかといわれています。

 文化4(1807)年に発行された海魚考(饒田喩義著)によると、「蒲簀(かます)ハ、草ヲ以ッテコレヲツクリ土石ヲ盛ルノ袋ナリ。縄ニテククリタル形チ両端小ニシテ其中大ナリ。コノ魚ノカタチコレニ似タリ。故ニ名ヅクタル乎。」とやや疑問をもちながら書き記されています。この説には、昭和57年に発行された新釈魚名考(栄川省造著)でも支持され、日本漢字教育振興会がまとめた動物のことば語源辞典でも支持されています。

 ところが、もう一つの説として、この魚の体つきは機織りに使う織梭(しょくさ)または杼(ひ)に似ているというものです。織梭は、 図1図1(杼 ひ) に示したような形をしたもので、機織りをしているときに右から左から交互に横糸を通すときに使う道具です。この説は、元禄8年(1695年)に発行された本朝食鑑(小野必大著)や宝永5年(1708年)に発行された大和本草(貝原益軒著)、正徳2年(1712年)に発行された和漢三才図会(寺島良安編)、享保16(1731)年に発行された日東魚譜(神田玄泉著)、文化元(1804)年に発行された雷公薬性解撰次(長崎中尾獣祖源基著)など江戸時代の多くの古書で採用されています。

 これらの説のもとになっている古書は中国の明の時代に発行された南産志(びん書第151、152巻、何喬遠撰)で、江戸時代の古書はこの南産志から引用して書いています。このため、カマスの漢字は、機織りに使う織梭の1字をとって梭魚または梭子魚と書き、カマスと読ませています。現在使われているカマスの漢字は、鰤と同じ老魚の意味を表わしていますが、日本では魚偏に師をブリ、師の右側だけを使ってカマスと読ませています。

 また、カマスの漢字を魚偏に予と書いてある場合がありますが、この漢字は魚偏に興と書くタナゴの漢字と同じで、カマスとは読みません。ただ、予の字は機織りの梭と同じ意味をもつ杼(ひ)の右側を使っていますので、梭魚と同じ意味の漢字として使っているようです。

 関東近海で漁獲されるカマス類のうち、アカカマスの別名は、小田原・伊豆地方ではアブラカマスまたはネーラカマス、三浦地方ではハットカマス、東京でヒンカマス、高知でオキカマスと呼び、ヤマトカマスの別名は、関東でミズカマス、和歌山でイソカマスとかトウジンと呼んでいます。

2. カマスの仲間

 カマス類は、トウゴロウイワシ科やボラ科などと同じ仲間のボラ目ボラ亜目に属しています。このボラの仲間は、昔、ニシンやイワシの仲間(これを軟鰭類という)からスズキやサバなどの仲間(これを棘鰭類という)に進化する途中の魚であるといわれていました。ニシンの仲間が進化してボラの仲間になり、ボラの仲間がさらに進化してスズキの仲間になったという説ですが、今ではこの説は否定されています。

 ボラの仲間は、頭蓋骨にある上耳骨が特に発達して、 図2図2(ボラ目の魚を特徴づける頭蓋骨にある上耳骨) に示したように、後ろ側に長く延び、刷毛(はけ)状になっているのが大きな特徴ですが、これを除くと、内部形態だけでスズキの仲間(棘鰭類)とはっきり区別することはできないとされています。

 そこで、このボラの仲間をよく調べた魚類学者によると、ボラ類は、腰骨が靱帯で付着して肩帯の近くにあり、眼の中に眼窩楔骨といわれる骨がなく、尾鰭の鰭条が短いものを除き17本、尻鰭の鰭条が多くのもので3本、腹鰭は必ず1棘5軟条であるなどの特徴をもっていましたので、この類はスズキ類の祖先であっても、ニシン類から進化してきた魚ではないと報告しています。このため、ボラの仲間はスズキ目の中の1群とされていましたが、最近の分類では、ツバメコノシロ科の魚やトウゴロウメダカ科の魚と一緒になってボラ目をつくり、単独の1群として分類されています。

 したがって、現在のボラ目には、トウゴロウイワシ科やボラ科、カマス科の3科があるボラ亜目と、トウゴロウメダカ科で代表されるトウゴロウメダカ亜目、ツバメコノシロ科で代表されるツバメコノシロ亜目があります。

 ボラ亜目の中で最も原始的な魚は、トウゴロウイワシ科の魚で、この科の魚は脊椎骨数や尾鰭の構造から最も原始的な魚とされています。ボラ科とカマス科の魚は、トウゴロウイワシ科の魚よりも進化しているものの、どちらも差がつけ難い程度に進化しているとされています。

 カマス科には、熱帯性のオニカマスや日本でよく食用とされるアカカマスやヤマトカマスなど9種類の魚がいます。

 アカカマスとヤマトカマスは日本の沿岸で普通にみられる魚ですが、これらの2種類の旬は異なります。アカカマスは冬、ヤマトカマスは夏ですので、カマスを賞味するにもまずカマスの種類を見分けなければなりません。

 これらの形態的な違いは、 図3図3(アカカマスとヤマトカマス) に示したように、背鰭の位置が異なることから容易に見分けることができます。アカカマスの背鰭は腹鰭よりも後ろ側から始まるのに対して、ヤマトカマスの背鰭は腹鰭とほぼ同じ位置から始まります。また、体色は、アカカマスでは背面が赤みを帯びた黄褐色ですが、ヤマトカマスでは灰色または淡い灰褐色ですから簡単に見分けることができます。

 

3. 不明な生涯

 カマス類は本州中部以南の沿岸から韓国、台湾、東南アジア、オーストラリアにかけて広く分布しています。日本の太平洋岸では、アカカマスは東京以南とされ、ヤマトカマスは茨城県以南とされていますので、関東近海はカマス類の北限の海域といえます。

 神奈川県沿岸では、カマス類はほぼ周年漁獲され、常に上位20位以内に入るほど多く漁獲されています。いったい、このカマス類はどこで生まれ、どこで育ち、どのように回遊してくるのでしょうか。

(1)産卵・仔稚魚

 カマス類の産卵期のうち、アカカマスの産卵は卵巣の成熟や仔魚の出現状況から6〜8月とされていますが、ヤマトカマスについては直接成熟状態が調べられていません。これは、成熟したヤマトカマスが漁獲されないためですが、この産卵期は、毎月漁獲されるカマスの体長の変化や仔魚の出現時期から4〜5月頃ではないかと推定されています。

 アカカマスの卵は0.7〜0.8ミリの球形で、ばらばらに分離して浮遊します。卵膜には特殊な構造がないために、自然海でこの魚の卵であるかどうかを見分けることが非常にむずかしい。

 受精した卵は水温21〜26℃では24〜30時間で孵化します。孵化直後の仔魚の大きさはわずか全長1.75ミリですが、全長7ミリ位に成長すると、第2背鰭や尻鰭がほぼ完成し、腹鰭や第1背鰭が出てきて、その体形が成魚に近づいてきます。体長約14ミリで全部の鰭が完成し稚魚となります。アカカマスの仔魚は5〜7月に南日本の沿岸の表層に出現し、瀬戸内海では10月頃までみられます。また、この15〜30ミリの稚魚は浅い海域に多く分布しています。

 ヤマトカマスの卵や仔魚についてはあまり調べられていませんが、体長約19ミリで稚魚となり、この魚の特徴を示す第1背鰭の真下に腹鰭ができてきます。この仔魚は、5〜6月に南日本の沖合い、特に黒潮縁辺部の表層に分布し、稚魚は浅い海域にはほとんど出現しないといわれています。

 これらの両種を比較すると、南日本では、アカカマスは沿岸の浅い海域で生活し、ヤマトカマスは黒潮近くの沖合いで生活していることになります。アカカマスの分布域はほぼ水深60mよりも深い大陸棚上で、五島西沖では100〜140m、東海南部では80〜140mです。これに対して、ヤマトカマ Xは水深60mよりも深いところとされています。相模湾では、アカカマスは大陸棚が発達している海域に多く漁獲され、ヤマトカマスは海底傾斜の急な海域で漁獲されています。

 アカカマスの産卵は東シナ海ばかりでなく紀伊水道でも行われていることが報告されています。元水産庁内海区水産研究所多々良薫博士は紀伊水道のカマス科の魚を調べたところ、アカカマスの産卵期は、生殖腺が最も大きくなる6〜7月であることを明らかにしています。現在のところ、アカカマスは東シナ海や紀伊水道で生まれて相模湾などの黒潮下流域に運ばれてきたものと考えられますが、アジのように、東シナ海ばかりでなく伊豆近海でも産卵している可能性もあるようです。

(2)成長

 カマス類の成長は、元神奈川県水産試験場相模湾支所木幡孜博士によって求められています。木幡博士は、昭和46年以来、毎月毎週小田原魚市場に水揚げされた魚の体長を調べて、多くの魚の成長や漁獲変動をまとめています。このなかで、カマス類の成長は昭和61年に報告されました。

 この報告によると、アカカマスは、5〜6月に孵化したものがその年末には体長20〜23センチに、満1歳で25センチ、満2歳で30センチ、満2.5歳で32センチあまりになり、ヤマトカマスは発生後4ヵ月で体長15.0〜19.5センチ、5ヵ月で19.5〜21.5センチ、6ヵ月で21.5〜23.0センチ内外に成長しています。アカカマスは、1歳で22センチを超えるようになると、産卵するようになりますから、その年にどれだけの産卵があって、どのくらいの稚魚が生き残ったかがたいへん重要になりますが、卵も稚魚の量も調査されていません。

 この木幡博士の報告では測定した範囲の大きさのものについては求めることができますが、この範囲外にある大きさ、たとえば、ヤマトカマスでは約5センチ以下のもの、アカカマスでは約10センチ以下のものについては推測の域をでません。

 最近、耳石の中に毎日1本ずつできる鱗紋を調べて、その魚の過去の履歴を調べようとする試みが多くの魚種で行われています。ヤマトカマスについては、元神奈川県水産総合研究所林陽子技師と本著者によって調べられ、平成13年に報告されました。

 その結果によると、ヤマトカマスの日周輪は、 図4図4(ヤマトカマスの耳石にある輪紋模様) に示したように、木の年輪のように核の周りに同心円状に毎日1本ずつできてきます。体長約14〜15センチのヤマトカマスで、この鱗紋が121〜158本ありました。1日1本ですから、この範囲のヤマトカマスは121〜158日齢となります。これを漁獲日から逆算すると、平成12年2月24日から同年4月1日までに誕生していたことがわかりました。つまり、木幡博士が4〜5月をヤマトカマスの産卵期としていましたが、日齢から推定すると、それよりももっと早くに誕生していることになります。

 また、ヤマトカマスの毎日の成長は、 図5図5(相模湾産ヤマトカマスの日間成長量の変化) に示したように、孵化後20日位まで緩やかですが、その後24日から35日目にかけて急激に成長し、それから再び成長が緩やかになっていきます。これを仮に東シナ海で生まれ黒潮に乗って運ばれてきたカマスとすると、孵化したときには水温の低い黒潮近くで生まれたために成長が悪く、その後水温の高い黒潮に乗ったために成長が急激に良くなり、約10日間くらいで北の海に運ばれ、本州沿岸で黒潮から離れて水温の低い海域を成長しながら接岸していったのではないかと考えることができます。

 ヤマトカマスの産卵場はまだ発見されていませんが、仔稚魚時代の腹鰭がバラムツやキンメダイ、クロシビカマスのように長くないので、南の亜熱帯地方で生まれた可能性はほとんどないと考えられます。東シナ海の仔魚は黒潮寄りで発見されていることから、マサバと同じように黒潮近くで生まれ、北の海に運ばれてくると考えたほうがよさそうです。

(3)食性

 カマス類は見るからに獰猛な顔付きをしています。口は大きく裂け、下顎が上顎よりも前に突き出ています。上顎には2本の犬歯、下顎の前端には大型の鋭い犬歯があり、それに続いて小さな犬歯が1列に並んでいます。犬歯の先は内側へと湾曲し、餌の小魚が自然と口の奥へと運ばれるようになっています。

 カマスの中でも熱帯性のオニカマスは体長が2mにもなり、鋭い歯をむき出しにして、人の足をも食いちぎるかのようにいわれています。一発噛ますとは、相手の勢いをそいだり、おどしたりする言葉ですが、このカマスはサメと違ったすごみをもっています。オニカマスは別名ドクカマスともいわれ、大型のものは毒性が激しく、これを食べて手足がしびれたり、吐くなどの中毒を起こすことがあります。

 カマス類は、俗に「底千匹」といわれるように、恐ろしいほどの大群を作ります。大きく鋭い眼で餌を見つけると我先に争って食らいつきます。体形が紡錘形ですから泳ぎも早く、最高スピードが時速150キロメートルにも達するといわれています。

 カマス類はサメ類と違って直線的に獲物に襲いかかる習性があります。朝夕のまずめのときには海の表層近くを遊泳し、光るものには興味を引いて飛びかかり、日中には海底近くに身を潜めて上を通る小魚や周りを泳ぎ回るエビやカニ類を食べています。

 東京大学名誉教授末広恭雄博士は石川県七尾の海辺でカマスが子魚に遅いかかる姿を観察し、「さかな風土記」に書き留めています。その内容は次のようにリアルに表現されています。

 「クサビのようにとがった口を幾分開き目にして鋭い歯をのぞかせたカマスが、すっと子魚の群れに突入すると、群れはさっと二つにわかれて、カマスがいわゆる空を突いた。そして、カマスは突入した余勢で、そのまま海面を一、二メートルも滑ったが、そこでくるりと向きなおると、一度二つに割れたがすぐ一つになったその群れに再び突入していくのであった。カマスが貪食を顔にみなぎらせて何回も子魚の群れに突入すれば、子魚の群れも必死に逃げ回った。」と。

 相模湾では、カマス類は定置網や刺網で漁獲されますが、水深10m前後で操業するシラス網でもとることができます。相模川の河口近くには、まだ生まれて20日前後のシラスが餌を求めて接岸してきます。シラスは、体が透き通り、やや濁った河口近くの海を好んで集まりますが、カマスはよほど眼がよいのか、この濁った海の中からシラスを見つけて食べています。カマスの胃の中はシラスで一杯になっていますので、どれほど多くのシラスが食べられているかがわかりません。シラス漁業者からみれば、カマスはアジやウズワ(ソーダカツオの若魚)と共にシラスを食べる害魚の一種になるに違いないほどです。

 ちょっと余談になりますが、カマスなどに食べられるシラスは成長の悪い、いわゆる元気のないものであることが最近明らかにされました。カマスの胃のなかから食べられたシラスを取り出して、そのシラスの毎日の成長量を調べました。もちろん食べられずに周りにいるシラスの成長量も調べました。その結果、食べられているシラスは成長の悪いものばかりでした。このようなことは、今まで推測の域を出ませんでしたが、この研究で科学的にそれを証明することができました。東京大学大学院生高須賀明典君は、中国の北京で開催された国際学会でこの研究を発表し優秀賞を受賞しました。この研究には、当然のことですが、本著者も共同研究者として参加しています。

4. 根を求めて接岸 

 カマス類はどのように接岸してくるかは良くわかっていませんが、東京湾口にある金田湾には約30ヶ統の定置網がところ狭しと張り立てられていますので、その定置網の日々の漁況と漁業者の経験からカマスの接岸状況を知ることができます。

 現在の金田湾には金田漁港が建設されましたので、私が聞き取りした昭和56年のときとは様子が少し変わってきています。当時の金田湾の南側には 図6図6(東京湾口の金田湾南部にある天然礁と定置網の位置) のように23ヶ統の定置網が船が走れないほど密着して張り立てられていました。そこには、転々と根と呼ばれる岩場が点在しています。

 根とは砂や泥の海底からある程度の高さをもつ天然礁のことで、旧金田湾漁協の故田村惣也氏によると、名のついたものだけでも15個はあるといいます。田村惣也氏は若い私を指導して頂いた漁業者の一人で、きっぷの良さと筋の通った頑固さでは右に出る人はいませんでしたが、私は無理を承知で根のある場所とカマスの通り道を教えて頂きました。本来は、長年経験で得た知識は簡単には教えてくれないのが漁師社会の不文律でしたが、私にだけはいろいろと教えてくれました。その根の位置を 図8図8(カマスの魚群別湾内回遊経路) に定置網と共に示してあります。

 これらの根は海岸からの陸続きのものと海中に孤立しているものがあります。陸続きの根は、この地先の北側と南側に沖に向かって1キロ程張り出してありますが、海中に孤立しているものでは、最も南側にあるカンダイ根が一番大きく、次いで、北側の沖合いにあるホーロク根が大きい根となっています。このホーロク根は沖の小型定置網の張り立て位置を決めるときの目印となっている根で、定置網漁業者にも重要な根となっています。

 沖側の小型定置網に対して、最も岸寄りには通称桝網が張り立てられています。この定置網の形状は小型定置網と全く同じ猪口網の形状で( 図7図7(猪口網の見取り図) 参照)、俗に呼ばれている桝網とは異なります。この網も餌イワシをとることを目的にしていますが、場所によっては餌イワシよりもカマスを多くとることができます。これは、カマスの通り道に桝網を張るからです。なかなか科学的には証明できませんが、田村氏はこの通り道を少しでもはずれると、カマスはとれなくなると話していました。

 では、どこの桝網がカマスをよくとるのでしょうか。

 桝網は一部を除いて10mよりも浅い海域に設置されます。 図6 に示した根のなかで、北側のA〜Dの桝網はその周辺に根がなく平間(平らな砂地)のところにありますが、他のE〜Lの8ヶ統はその回りに大小の根があります。特に、J、K、Lの桝網は根と根の間に桝網の身網(魚をとるところ)がきちんとはまるように設置されています。腕のいい船頭によると、「根と根の間に切れ目があって、その間が谷間のような形をしている。カマスはその溝を伝わって渡ってくる。定置網の魚をためるところ(身網)はこの溝の中に設置しなければならない。少しでも離れて設置すると漁獲はなくなる。」と話しています。

 たとえば、桝網Jは沖のマン根と丘のマン根の間に身網がくるように張り立てられますが、この間は約11間(約16.5m)しかなく、身網の幅とほぼ同じくらいの長さしかありませんから、この網を張り立てる技術と経験は相当なものといえます。

 同じように、桝網Kはアンドガ根とホソ根の間に身網がくるように、桝網Lはカチャ根と大根との間に張り立てますが、この身網はカチャ根の先端から東に張り出した細い岩場にできるだけ近づけ、その垣網はできるだけカチャ根に近づけて設置するとのことです。これが、カマスを大量に漁獲するコツだそうです。

 さて、これらの定置網にはそれぞれどのくらいのカマスがとれるのでしょうか。ここで、カマスがたくさんとれたところはカマスの接岸経路とし、カマスがほとんどまたは全くとれなかったところはカマスが通らなかったとし、また、カマスが来遊した初日は漁獲量が1トン以上漁獲された日と仮定します。

 この仮定に基づいてカマスの接岸経路を推定したのが 図8 です。金田湾の北側から来遊したカマス魚群は第3〜6魚群と第9魚群ですが、このうち第9魚群を除いて他の魚群は桝網Bの周辺を通過し、その一部は沖側に、他は根のある方向にさらに接岸して、桝網Gと桝網Jで大量に漁獲されています。南側から来遊したカマス魚群は第1、2、7、8魚群ですが、これらの魚群は南側の小型定置網で多獲され、それから岸寄りの桝網、特に桝網Kで多く漁獲されています。これは、カマス魚群が湾内の根を意識して接岸していることを示しています。

 また、漁業者の経験から、カマス魚群は根と根にはさまれた深みを通るとされ、桝網J、Kはこの地区の誰もが知っているカマス場ですが、沖の小型定置網でもホーロク根とサッサカ根にはさまれた小型定置網Nもカマスの好漁場となっています。

5. 豊漁の周期

 カマスは全国のどこでもとれる魚ではなく、神奈川県や富山県などある地方に片寄って多くとれる魚ですので、全国的な漁獲統計がありません。平成12年に水産庁がまとめたカマスの漁獲量をみると、全国でカマスを漁獲したことのある、または現在も漁獲している県は、茨城、神奈川、東京都、富山、和歌山、徳島、香川、愛媛、京都、兵庫、岡山、広島、鳥取、山口、大分、福岡、宮崎の17県です。

 この漁獲統計は、昭和31(1956)年から平成6(1994)年までの39年間のカマスの年漁獲量をまとめてありますが、資料が完全にそろっている県は神奈川県だけで、次いで昭和31年だけ欠落している県は徳島県、昭和31〜33年の3年間だけが欠落している県は愛媛・富山県で、他の県では20年間分以上の漁獲資料がありません。いかに、カマスの漁獲資料が整理整頓されていないかがわかります。

 毎年どのくらいのカマスが各県で漁獲されているかを把握するために、単純に資料のある年だけで平均してみると、富山県が最も多く平均で796トン、次いで神奈川県の482トンで、他県を大きく引き離して多く漁獲しています。富山県は日本列島の中央部で、神奈川県とちょうど反対側の日本海側に位置しています。この県の位置ばかりでなく、富山湾と相模湾も非常に多くの共通点があります。

 相模湾の海底には相模トラフと呼ばれる深海の海底谷があります。ここでは、地震の巣といわれるフィリピン海プレートと北米プレートとがぶつかりあっています。この境界は相模トラフから酒匂川を通り北に伸びて富山湾に抜けています。また、富山湾でも湾の奥深くに1000m以上の深海が入り込んでいます。地形的にみても非常に両方の湾は似ていますが、こればかりでなく、両者の湾はブリの名産地としても有名です。相模湾では、近年、ブリの漁獲がなくなりましたが(ワラサやイナダは多い)、富山湾では氷見のブリとして有名です。

 では、カマスは何年周期で多くとれているのでしょうか。漁獲が多く資料のそろっている神奈川県と富山県の資料でみてみましょう。

 カマスが豊漁となる年は、神奈川県では 図9図9(神奈川県と富山県におけるカマスの年漁獲量の推移) に示したように5〜6年周期で生じているようにみえます。昭和43年の豊漁年から5年後の昭和48年に再び豊漁となっていますが、その後は6年周期で豊漁となっています。かって、カマスの豊漁は5〜6年周期で生じているので、平成9年は豊漁となることを予測しましたが、それが見事に当たっています。この周期でいくと、次の豊漁年は平成15年になります。この次も的中するのでしょうか。

 このような周期は富山県でもみられるようです。富山県のカマスの豊漁年も 図9 に白抜きの矢印で示しましたが、やはり5〜6年周期で生じていることがわかります。神奈川県と少し違うところは、平成3年前後に豊漁とならなかったことと、豊漁となる年が一部で1年分ずれることですが、これらについてはよくわかりません。

 カマス類にはアカカマスとヤマトカマスがいることをすでにお話ししましたが、これらは同じ時期に来遊してくるのでしょうか。それともどちらかのカマスが早く接岸してくるのでしょうか。相模湾で漁獲されるカマス類は種類別に報告されていますので、このカマス類について調べてみましょう。

 相模湾では、アカカマスは周年漁獲されていますが、特に5〜6月と10月前後に多く来遊します。真夏の8月には少なくなり、これに代わってヤマトカマスが大挙して来遊してきます。ちょうど相模湾には、アカカマスが来て、次いでヤマトカマスが、それに続いて再びアカカマスが来遊してくるようにみえます。

 この来遊パターンは、豊漁期には春に来遊してくるアカカマス魚群よりも秋に来遊してくるアカカマス魚群のほうが大きく、この魚群は定置網によって大量に漁獲されます。これに対して、不漁期には春のアカカマス魚群のほうが秋の魚群よりも大きく、秋の魚群はわずかしかとれません。したがって、この海域のカマスの好不漁は秋のアカカマス漁に左右されています。

 そこで、秋のアカカマス魚群が来遊してくる10月には、相模湾の沖を通る黒潮がどのように流れていたかを調べてみました。

 黒潮の流れ型には5つのパターンがあるといわれています。遠州灘沖を大きく迂回して伊豆諸島の西側を北上して本州に接岸して東に抜ける流れ型(これをA型という)、遠州灘沖でA型よりも小さく迂回してA型とほぼ同じように通り抜ける流れ型(これをB型という)、本州の陸岸にほぼ平行に沿って通り抜ける流れ型(これをN型という)、遠州灘をほぼ陸岸に沿って流れ伊豆諸島沖を大きく迂回して伊豆諸島の東側を通り抜ける流れ型(これをC型という)、C型とほぼ同じ流れ型で伊豆諸島のはるか東側沖合を北上する流れ型(これをD型という)があります。

 カマスの豊漁期は昭和43、48、54、60年と平成3、9年の6回ですが、この年の10月の黒潮流路は順にN、N、B、N、N、D〜N型と圧倒的にN型が多くなっていますが、昭和52、57年と平成5年の不漁期には、黒潮はA、B、D〜N型で流れています。B型のときもN型のときもカマスは豊漁であったり不漁であったりしていますので、アカカマスは黒潮の流れ型に影響されずに接岸していると考えられます。

 やはりカマスがどこで生まれて、小さいときにはどこでどのように生活しているか、大きくなるとどのような回遊をしているのかがわからなければ、なぜ周期的な豊漁ができるか、なぜ接岸するのかをうまく説明することができないようです。

6. カマスの干物

 カマスは大昔から食用にされていました。東京湾や相模湾には多くの貝塚がありますが、そのなかの東京湾側にある横須賀市吉井貝塚からもカマスの骨が出土しています。沿岸に接岸してきたカマスを釣って食用にしていたのでしょう。

 時代は下がって、万葉の時代には、平城京跡から出土した木簡に加麻須(カマス)の名があり、各地から送られてきたカマスを塩焼きや干物にして賞味されていました。

 では、小田原の名産品であるカマスの干物はいつ頃から作り始めたのでしょうか。

 すでに江戸時代の初期には干物にして売られていたことが古書に記されています。元禄8年(1695年)に発行された本朝食鑑(小野必大著)には、カマスは各地の海でとれ、干物にして盛んに賞味されている、脂の多いものは淡赤色、脂の少ないものは黄白色で、京都や難波の魚市場では1、2寸(3〜6センチ)ほどのカマスの子がよいものとされている、と書かれています。正徳2年(1712年)に発行された和漢三才図会(寺島良安編)には、カマスの干物は6〜7寸(18〜21センチ)のものが多く、備前(現岡山県)から干物として出荷している、とあります。江戸時代後期の天保2年(1831年)に発行された魚鑑(武井周作著)にも、カマスは生でそのまま焼いて食べてもよく、干物にしたものもまたうまい、と記され、これらの古書から、カマスが江戸時代を通じて干物として賞味されていたことがわかります。

 このカマスの干物は明治時代に入っても作られていました。明治の初め頃はまだ統計がありませんでしたので、どのくらいの量が作られたかはわかりませんが、この時代の中頃になって、科学的に国の政策を行うために、欧米諸国に見習って種々の統計書が作成されるようになりました。当時、最大の産業であった漁業も明治18年頃から統計がとられるようになり、神奈川県の漁業統計書も明治20年から作られるようになりました。

 最初の統計は、漁業者数とか漁船数、主な魚の水揚げ金額などが記されていますが、水産加工品については明治24年頃から乾物、塩乾物などに分けて記載されています。このなかには、アジやサバなどの干物の販売金額が記載されていますが、カマスの干物は見つかりません。

 小田原のカマスの干物は明治35年の統計書に始めて記載されています。これまでカマスの漁獲がなかったわけではなく、明治20年代にもカマスが漁獲されています。当時の統計書は明治28年まで水揚げ金額で、その後は漁獲量と水揚げ金額で示されていますので、明治29年の単価表で28年以前の漁獲量を推定し、それらを含めてカマスの漁獲量を 図10図10(神奈川県におけるカマス漁獲量の年変化) に示しました。この図から、明治時代のカマスの漁獲量は昭和・平成時代と比べて非常に少ないことがわかりますが、これでも当時としては、カマスは多く漁獲されているほうの魚でした。ちなみに、明治35年の魚種別漁獲量を 表1表1(明治35年の魚種別漁獲量) に示しておきます。

 明治35年における神奈川県のカマス漁獲量は約134トンで、東京湾では漁獲がなく、すべてのカマスが相模湾で漁獲されています。水揚げ地は明治35年の統計には記載がありませんが、明治28年の統計を参考にすると、相模湾東部で最も多く、湾央部と西部でほぼ同じ程度漁獲しています。したがって、カマスの干物を作ろうとすれば、相模湾のどの地域でも製造することができる環境にありました。

 ところが、カマスの干物を生産している地区をみると、これも明治35年の統計がありませんので、明治37年の統計を参考にすると、明治37年のカマスの干物は高座郡と足柄下郡だけで製造され、他の地区では作られていなかったようです。高座郡は現在の藤沢市鵠沼から茅ヶ崎市柳島までの地区ですが、この地区のカマス干物の値段はキロ当たり約0.7円でした。これに対して、現在の小田原市前川から湯河原市吉浜までの足柄下郡で製造されたカマスの干物の値段はキロ当たり0.2円で、高座郡のほうが約3倍高く売買されています。この価格からみれば、高座郡でカマスの干物がたくさん製造されてもよいはずですが、これ以後も増えることなく、値段も明治40年には足柄下郡のものとほぼ同じ価格になりました。

 カマスの漁獲量の多い三浦郡では、統計上の記録によると、明治41年からカマスの干物の製造が始まっています。値段は高座郡や足柄下郡のものと比べてほぼ半値で売買されています。これは、生産量が非常に多かったためのようです。明治41年には他の2地区の4〜5倍生産され、明治42年には他の地区で20貫(約75キロ)位しか製造していないのに対して、三浦郡では約35倍の730貫(約2734キロ)も生産しています。その後、三浦郡では生産量を低下させ、値段は他地区並みになりましたが、大正6年以降にはほとんど製造されなくなりました。高座郡でもこれより2年前からカマスの干物が製造されなくなくなり、足柄下郡だけが残って製造されています。

 大正13年に足柄下郡で製造されたカマスの干物は約10.6トン生産され、生産金額は8500円、キロ当たりの単価は0.8円と明治末期の値段の2倍近くになっています。この頃の干物類は、アジの干物や煮干し、シラス干しなどが京浜地区に出荷されていましたが、カマスの干物だけは湯河原の温泉町で販売されていますので、これは地域性の高い商品であったようです。

 このカマスの干物は戦後になっても製造され続けていますが、近年では漁獲量が少なくなり、銚子沖などでとれたカマスを多く使うようになってきたそうです。

 あらためていうまでもありませんが、カマスの肉はやや水っぽいので煮物には不向きですが、一塩すると、「カマスの焼き食い一升飯」といわれるほど逸品となります。特に小田原はこの本場といわれています。

 アジやカマスなどの開きの干物は室町時代から始められたといわれていますが、アジの干物は頭から真っ二つに腹から開きます。これに対してカマスは頭を残して背開きにするのが普通です。これは、築地魚がし60年の伊藤勝田郎氏によると、開いたときの外観が良いほうに魚を開くためで、開きの形も見栄えも味の一つだそうです。

7. カマスの塩辛

 塩辛は魚介類の肉や臓もつをじっくり発酵させた食品で、塩蔵中に自己消化によってできるアミノ酸が珍味のもとになっています。この塩辛は奈良時代にはシシビシオといって、本来はシカやイノシシの肉の発酵塩蔵食品でしたが、承平4年(934年)に発行された和名類聚抄(源順編)には「肉醤も魚醤もシシビシオと呼ぶ」とあります。平城京跡から出土する木簡に「鯛醤(たいびしお)」と書かれたものがありますので、すでにこの時代には現在の塩辛が食用にされていたようです。サケの背腸で作ったセワタやナマコの腸で作ったコノワタなども良く知られた名産品です。

 カマスの塩辛は腸を塩漬けにしたもので、室町時代にすでに賞味されていたといいます。江戸時代前期の元禄8年(1695年)に発行された本朝食鑑(小野必大著)には、3、4寸ほどのカマスの黒い腸を塩辛にしたものが珍賞され、尾州(愛知)・勢州(三重)のものが最も上品で、賀州(加賀)・越州(福井)のものはあまりうまくない、と評しています。この塩辛は淡路の志築(しづき)でとれるカマスから作られるので、志築と呼ばれている、と和漢三才図会(正徳2年(1712年)寺島良安編)に記されています。

 幕末の頃になると、江戸ではカツオやアミ、エビ、イカなどの塩辛が流行しましたが、これは相模(神奈川)の小田原で製造された名産品でした。カツオは鎌倉・室町の時代を通して相模湾で盛んにとれていましたので、これをカツオ節に加工していましたが、この時に大量に出る内臓を塩漬けにして熟成させたものが名産品となっています。この塩辛は江戸時代から引き続いて現在でも酒盗と呼ばれ、これを肴にして酒を飲むときりがないことから名付けられています。

 このように塩辛と干物をみてくると、これらは原料を残すところなく有効に利用しようとする古来からの知恵によって生み出された食品のようにみえます。カマスの細い体から腸を抜き取り、それを志築にして利用し、残りを上品な開き干しにして保存食にする古来伝法の食品には感激を覚えます。


神奈川県水産総合研究所 2003
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