アユその他
相模川の鮎(上納鮎について)相模原市史より
相模川の鮎が江戸本丸御用として上納され始めたのは何時頃からかその起源は、はっきりしないが、余程古くからであったようである。
享保二十一年の「橋本村諸色明細帳」には「御上げ鮎待人足」として「是は平岡三郎左衝門様御代官所津久井領荒川より差し上げ候、御上げ鮎当村より武州小山村まで道法三拾町余、人足三人宛毎年三月より九月まで相勤め申し候、この人足の儀も橋本村、小山村、上相原村、九沢村、四力村にて勤め来り申し候、是はただ今にては御上げ鮎御上納御座無く候につき当分人足出し申さず候」とあり、又天保十三年「上相原村諸色明細帳」には「右御上げ鮎通行の節、当村道筋通路差支えなきよう道普請仰せつけられ候」とある。
いづれにしろ上納の道筋に当る村々では道路普請して通行を便にし、上記四力村では運搬のため人夫を出したのである。また又津久井組で上納の鮎が足りない時は、大島、田名あたりの殺生人(漁をする人)で不足分を補充した記録がある。(又其の反對の時もあり相互で上納している)なほ享保末期の時代には、定期的な御用鮎の上納は中止となっていた。しかし「御本丸鮎急御用」を命じられた場合は臨時上納したようで、その請負人があったのである。
享保二十一年の「橋本村諸色明細帳」には「御上げ鮎待人足」として「是は平岡三郎左衝門様御代官所津久井領荒川より差し上げ候、御上げ鮎当村より武州小山村まで道法三拾町余、人足三人宛毎年三月より九月まで相勤め申し候、この人足の儀も橋本村、小山村、上相原村、九沢村、四力村にて勤め来り申し候、是はただ今にては御上げ鮎御上納御座無く候につき当分人足出し申さず候」とあり、又天保十三年「上相原村諸色明細帳」には「右御上げ鮎通行の節、当村道筋通路差支えなきよう道普請仰せつけられ候」とある。
いづれにしろ上納の道筋に当る村々では道路普請して通行を便にし、上記四力村では運搬のため人夫を出したのである。また又津久井組で上納の鮎が足りない時は、大島、田名あたりの殺生人(漁をする人)で不足分を補充した記録がある。(又其の反對の時もあり相互で上納している)なほ享保末期の時代には、定期的な御用鮎の上納は中止となっていた。しかし「御本丸鮎急御用」を命じられた場合は臨時上納したようで、その請負人があったのである。
鮎河
相模川の古名。
承和2年(835年)6月29日の大政官符に「相模國鮎河」と記載されています。
これは、相模の鮎河に「浮橋」や「布施屋」を設け、渡船も増備して調庸の運搬の便を図るよう命じたものとされています。
承和2年(835年)6月29日の大政官符に「相模國鮎河」と記載されています。
これは、相模の鮎河に「浮橋」や「布施屋」を設け、渡船も増備して調庸の運搬の便を図るよう命じたものとされています。
平塚市史、平塚市、1985より
馬入川
河口付近の別名
建久9年(1198年)稲毛重成が亡妻の追善供養に橋を架けたが、この時の橋供養の際、頼朝の乗った馬が川の中に暴れ入ったことから名付けられたという。
平塚市史、平塚市、1985より
建久9年(1198年)稲毛重成が亡妻の追善供養に橋を架けたが、この時の橋供養の際、頼朝の乗った馬が川の中に暴れ入ったことから名付けられたという。
平塚市史、平塚市、1985より